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ああ斗南藩終焉す!突然の廃藩置県は何故起きたか?【半島をゆく 歴史解説編 下北半島 2】

『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。

文/藤田達生(三重大学教授)

下北半島・尻屋崎。灯台は斗南藩士らの請願によって建設された。夏は寒立馬が放牧されている。

「斗南藩は、成立までに多くの有為な人命を失いました。戊辰戦争に引き続き、会津からの下北への600kmにも及ぶ移動や、厳寒のなかの越冬を強いられた明治3年(1870)は、まさに生き地獄と言ってよい年でした」。斗南會津会相談役の目時紀朗さんは、静かにおっしゃった。

藩では、同年10月に田名部の妙見平(青森県むつ市)の原野を切り拓いて「斗南ケ丘」と命名。武家地を造成して110棟の長屋群を建設し、原野開拓のベースキャンプ地とした。もちろん、この程度で全藩士とその家族が収容できたのではない。続いて、松ヶ丘や野辺地などの領内各地に各30棟程度の長屋を建てて対応した。

同時に仮の藩庁を、田名部の円通寺に移動し、本堂では藩校日新館でおこなわれた教育も復活させた。ただし、従来の孝経や論語にかわり、福沢諭吉の『世界国尽』『西洋事情』『窮理図解』など、時代に即応した書物が講じられたという。

2日目、起床したばかりの私は、昨日現地でお聞きした以上の事実を念頭に、藩とはなにかについて考え始めた。藩を地域国家とする見方は一般的だと思うが、近代的な国家とはもちろん異なる。藩とは、藩士丸抱えの一家組織とみることも可能である。極限状況のなか、斗南藩が藩士とその家族のために様々な努力を惜しまなかったのも、家中としての堅い一体感があったからである。

藩の特質は、所有のありかたに凝縮されている。藩主の城郭、藩士の武家屋敷、いずれも彼らの私有の対象ではなかった。現代風に表現すれば、公務員宿舎なのである。大名は国替えがあると城郭がかわるし、藩士も役職がかわったりすると屋敷替えがある。ここが、私有と実力行使を原則とする中世領主との決定的な違いである。

要するに、藩主にとって城郭、藩領、領民は、将軍から預かっているものだった。もちろん、将軍は天皇から政治の実務を任された存在だった。したがって、まったく新たな領地に明治になって立藩した斗南藩の場合、新政府から支給された資金をもとに、藩庁や武家屋敷を確保し、さらには家中を構成する藩士とその家族の生活を保障せねばならなかったのである。

廃藩置県と王土王民思想

朝食後、私たちは仮藩庁の置かれた円通寺に隣接する徳玄寺(真宗大谷派)を訪問した。斗南會津会特別顧問でもあられる石澤史住職からは、当寺でわずか3歳の幼君松平容大が無邪気に遊んだことや、家臣たちが集って藩の将来について熱く語り合ったことを教えていただいた。

斗南藩幹部らが会合を持った徳玄寺(むつ市)

先日の如く、藩では住居の確保そして教育体制の整備が進められたのだが、あわせて田名部や三戸(青森県三戸町)そして野辺地に救貧所を設けて、生活能力に欠ける藩士やその家族に対して、漆器細工・製紙・機織・陶器づくりなどの職業指導をおこなった。

その頃、藩は藩庁を建設する計画を立て、図面まで準備していた。明くる明治4年、ここに青天の霹靂がおこる。廃藩置県である。藩士とその家族にとっての心の支えだった藩主容大は、他の藩主と同様に東京に移住することになったのだ。

③幼君・松平容大公から下賜された中啓。

石澤さんは、まるで昨日のことのように容大の東京への出立について語られた。世話になった記念として渡された金地に松に鶴が描かれた豪華な中啓(扇子の一種)を、私たちに見せてくださった。あわせて、斗南藩関係者が記された明治3年分の過去帳についてもご説明のうえ拝見することができた。死者の名前が書き連ねており、厳しい移動がもとで亡くなった藩関係者が少なくなかったことを確認した。

徳玄寺の石澤史住職に斗南藩士の苦難を聞く。

斗南藩の誰も予期しなかった廃藩置県は、藩士とその家族に大変な動揺をもたらした。会津藩の終焉の地が、この本州最北端の下北となったのだ。

ここで、廃藩置県の意義について考えてみたい。

文字通り200年以上続いた藩を廃して県を置くことではあるが、いきなりこのような大変革を実施したのではない。その前提は、明治2年6月の版籍奉還にある。注目したいのは、建白書冒頭の「……天祖肇て国を開き、基を建玉ひしより、皇統一系万世無窮普天率土其有に非ざるはなく、其臣に非ざるはなし、是大体とす、且与え且奪い、爵禄以て下を維持し、尺土も私に有すること能はず、一民も私に攘むこと能はず、これ大権とす」である。

ここに記されている「大体」とは、すべての土地と人民は天皇の所有であること、「大権」とは土地・人民の私有を認めないことを意味する。すなわち、王土王民思想にほかならない。版籍奉還は、王政復古にもとづき王土王民思想を実現するものであるから、諸藩主は表だって反対することができなかった。

受け入れた諸大名にとっての真のねらいは、いったん新政府に返した領知権の再交付にあった。弱体化した藩主権を、新政府の後ろ盾によって強化し直すことを目的としていたのだ。ところが結局これはおこなわれず、藩主は知藩事になっただけだった。

廃藩置県は、それを前提として明治4年7月に断行された。その詔書の次の箇所に注目したい。それは、「朕曩に諸藩版籍奉還の議を聴納し、新に知藩事を命じ各其職を奉ぜしむ、然るに数百年因襲の久き、或は其名ありて其実挙がらざるあり、…朕深く之を概す、仍て今更に藩を廃し県と為す」である。

盛岡藩よりも弘前藩を選択した斗南藩の深謀遠慮

せっかく王土王民イデオロギーを貫徹するべく版籍奉還をおこない、藩主を知藩事に任命したにもかかわらず、天皇が彼らの政務を監査したところ、実績をあげていない者が多いというのである。任命責任者である天皇は、それを深く嘆いて、知藩事全員を免職し、藩にかわって県を置くことにしたのであった。

これによって、現代に至る国―県システムが誕生し、集権国家としての「明治国家」が誕生したのである。これが、官僚制度と近代軍隊そして地租改正の断行による近代税制を成立させる、すべての前提となった。

廃藩置県への斗南藩首脳部の対応は、まさしく電光石火だった。山川浩(大参事)や広沢安任(小参事)らは、弘前藩との合併を進めたのである。それは、会津以来親しい関係にあった南隣の盛岡藩よりも、新政府の覚えめでたく稲作も盛んで10万石もあった大藩との合併の方が、斗南藩関係者の将来にとって有利だと判断したからである。

実は、盛岡藩も奥羽越列藩同盟として戊辰戦争を戦ったため、そのダメージは小さくなかった。明治元年には、処罰として七万石の減封に加えて陸奥白石藩十三万石への国替が命じられた。その後の嘆願運動の結果、なんとか盛岡に復帰できることになったが、罰金として70万両もの大金の支払いが条件となっていた。結局、その返済が無理なことから、廃藩置県以前に廃藩が認められるという経緯があった。

これが、斗南藩の弘前藩との合併という選択の背景にあったことは疑いない。広沢は面識のあった新政府の中枢・大久保利通に接近し、猛烈に合併運動を展開した。その甲斐あって、早くも明治4年9月には斗南・七戸・八戸・黒石・館(旧松前)の五県を弘前県に合併することが決定した。早速、野田豁通(旧熊本藩士)が弘前県大参事に任命され、弘前から青森に県庁舎が移された。青森県の誕生である。

これをもって、斗南藩は廃された。藩士とその家族も会津や東京をはじめ四散し、わずか一年余りの短い歴史を閉じたのである。しかし決して多くはないが、斗南會津会のみなさんのように、しっかりと下北の地に踏みとどまった方もいらっしゃった。

会津と較べて自然環境が厳しかったから、斗南藩士たちが定着しなかったとみる方も少なくないと思う。藩は「家中」とよばれたように、藩士とその家族の生活を保護する義務を有した。それがなくなったため、仕方なく各地に散っていったとみるのが正確だと思われる。近代化の嵐のなかで、武士たちにとっての受難は続くのである。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」が単行本になりました。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442

『半島をゆく 信長と戦国興亡編』 1500円+税

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