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キリシタンのまほろば|佐世保湾歴史クルージング【半島をゆく 歴史解説編 西彼杵半島】

『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。

文/藤田達生(三重大学教授)

猛暑の去った2018年9月28日、筆者は九州は長崎空港に降り立った。お出迎えいただいたのは、園田貴子さんと本馬貞夫さんだ。園田さんは長崎県文化観光国際部文化振興課にお務めで、本馬さんは長崎学アドバイザーである。東京から来られる安部さんと編集担当のIさんをお待ちする間に、興味深いお話しを取材することができたので、ぜひご披露したい。

たまたま厳寒のなかに取材した斗南藩のことが話題に出た折に、幕末の会津藩と長崎との深い関係について本馬さんからご教示いただいた。その関係を取り持ったのが、現在の兵庫県朝来市出身の足立仁十郎智義である。

仁十郎は、当地で藤本徳右衛門の次男として享和2年(1801)に誕生した。やがて大坂の道修町にある薬種商田辺屋(後の田辺製薬)に奉公に出て、その手腕を買われて婿養子として迎えられ、足立姓を称するようになった。

当時、東北の雄藩・会津藩は、天明の飢饉などで疲弊しており、高級漢方薬である朝鮮人参の栽培に力を入れていた。折しも、長崎に田辺屋を構えた仁十郎は、有力産地になった会津藩に下向して栽培の指導をおこなうことになった。それは見事に成功し、彼は藩の直営事業として人参奉行所を取り仕切る。朝鮮人参は、長崎を窓口とする清国との貿易の有力輸出品となり、藩経済に大きく貢献する。

そういう訳で、仁十郎は藩主松平容保に大変気に入られ、御用商人から藩の重役である若年寄格にまで抜擢された。容保が京都守護職を務めることができた経済的背景には、3万両という仁十郎が朝鮮人参貿易で稼いだ莫大な資金があったといわれる。

また、長崎における新式銃の大量購入など、会津藩の軍備増強にも仁十郎は大きく貢献した。しかし、会津戦争に敗北したことにより、彼の財産は明治新政府に没収されてしまった。その後の消息はわからなくなるが、明治14年に仁十郎は亡くなったそうである。

本馬さんのお話は、会津藩のカステラに移った。「会津葵」と言うそうである。仁十郎が会津に持ち込んだカステラであるが、本場の長崎カステラとは趣が異なると仰る。早速、ネットで調べてみたが、あん入りカステラだった。見事な和洋折衷に感心した。なお、筆者は約30年も前に、道修町の薬種会所に伝存した古文書群の整理をお手伝いしたことがある。確かに、田辺製薬も近くにあった。なんと、ここから仁十郎の活躍が始まったのだ。

そんなことに感心しているうちに、「半島をゆく」スタッフ一同が揃ったので、私たちは大村湾を眼下に望みながら、今回の半島の旅のテーマ「潜伏キリシタン」の故郷ともいえる西彼杵(にしそのぎ)半島の北部に位置する肥前横瀬浦(長崎県西海市)を、一路めざした

南蛮船のランドマークだった八ノ子島

私たちは、ハウステンポスを横目に西海橋を渡って佐世保湾に入っていった。やがて、山頂に白い十字架が見えるお椀を伏せたようなかわいい小島「八ノ子島」が至近に見えてきた。最初の訪問地である。ここからチャーターした遊覧船に乗って、小島を周回した後に、佐世保湾巡りを楽しむのである。その前に、横瀬浦の繁栄について記しておきたい。

横瀬浦の沖合いに浮かぶ八ノ子島。

横瀬浦の沖合いに浮かぶ八ノ子島。

横瀬浦が南蛮貿易の中核的な都市となったのは、肥前松浦氏の城下町平戸(長崎県平戸市)にポルトガル人が来航しなくなってからである。原因は、永禄4年(1561)に平戸の七郎宮で勃発した日本人とポルトガル人との商売をめぐる武力抗争だった。その結果、カピタンモール(司令官)のソウザと13人のポルトガル人が殺害された(宮ノ前事件)。しかも、松浦氏が日本人を処罰しなかったため、平戸における南蛮貿易は中断することになった。

ポルトガル人は新たな貿易港を探したのであるが、その白羽の矢が当たったのが横瀬浦だった。理由は、松浦氏に対抗できる領主が治めていることと、波静かな佐世保湾内で水深の深い良港だったからである。ポルトガル人は、当地の領主である大村純忠に許可を求めた。利に賢い純忠は、布教許可を認めるかわりに、南蛮貿易を振興して横瀬浦を国際貿易都市にすることにしたのである。

美しい佐世保湾の光景

美しい佐世保湾の光景

私たちは、西海市のみなさんのご案内で遊覧船に搭乗した。世の中は狭いものである。そのなかに、20年近く前に愛媛大学で筆者の集中講義を受講された原口聡さんがいらっしゃった。地元ミカン農家のご出身で大学では日本史を学び、帰郷して市職員として専門を生かしつつご活躍されている。原口さんからは、自ら編者を務めた立派な研究書『石が語る西海の歴史』をいただき、まさに感無量だった。

桟橋からわずか300メートル沖合に浮かぶ八ノ子島には、宣教師ルイス・デ・アルメイダの記録によると十字架が建てられていた。現在の白い十字架は、1962年に復元されたもの。横瀬浦をめざす南蛮船にとって、ありがたいランドマークとなったことであろう。青い空、碧い海に映える八ノ子島を何回か廻った後に、佐世保湾をクルージングしたのだが、想像を遙かに超えて広い。

原口さんは、対岸の佐世保市内の高校に船で通ったそうだ。なるほど、高速道路を使って湾内を回るよりも到着は早いだろう。遊覧船は、外海近くまで行き、反転して巨大な3本のコンクリート製の電波塔がそびえる針尾送信所を遠望しつつ西海橋付近まで進んで、港に引き返した

国際貿易都市だった横瀬浦

針尾無線塔は、大正時代から建つ自立式電波塔である。高さ(1・2号塔135メートル、3号塔137メートル)、古さともに日本一という。現在は、市民のボランティアで観光客を案内しているそうである。海上保安庁も理解を示しているとのお話なので、この第一級の近代遺産の活用は、今後が楽しみである。

旧海軍が設置した針尾無線塔。

旧海軍が設置した針尾無線塔

佐世保湾と西海橋から南に広がる大村湾の内海の世界を、大村氏は支配していたのであるが、やはりその実態は海賊大名と呼ぶべきだろう。佐世保湾と大村湾を扼する針尾には、大村純忠の家臣だった針生伊賀守の城郭があったことを、船上からご教示いただいた。

伊賀守は横瀬浦の開港に尽力した地元勢力だったが、永禄6年7月に純忠と敵対する後藤貴明(大村純前の子息で肥前後藤氏の養子となる。養子入りして大村氏当主となった純忠と激しく対立する)方に属して、横瀬浦にいた外国人宣教師を殺害し町を焼き払うという事件(横瀬浦事件)を引き起こし、以来一貫して反純忠勢力に属した。

クルージングを終えた私たちは、横瀬保育所付近にあったといわれる純忠屋敷跡へと向かった。さらに「寺屋敷」の地名が残る横瀬浦史跡公園をめざした。ここには、教会をイメージした展望台などの観光施設があり、穏やかな入江や町並みを一望しつつ、かつて外国人で殷賑を極めた上町・下町などの国際貿易都市を偲んだ。

大村純忠屋敷跡。純忠は、最初のキリシタン大名となる。

大村純忠屋敷跡。純忠は、最初のキリシタン大名となる。

公園の降り口付近で、大著『日本史』(Historia de Iapam)で有名な宣教師ルイス・フロイスの等身大(195cm)の立派な銅像と対面した。『日本史』とは、内容的には日本教会史のことである。ポルトガルのリスボンに誕生し、イエズス会に入信したフロイスは、布教のためインドのゴアを経由して日本をめざした。フランシスコ・ザビエルとも親交があったようだ。フロイスがはじめて日本に上陸したのが、この横瀬浦だったのだ。

そして横瀬浦の繁栄と没落を見聞し、それから京都に向かい、信長や秀吉をはじめとする実力者たちとの交流をもち、その堪能な語学力を駆使して 慶長2年(1593)5月に死去するまで大著を書き上続けたのである。筆者は、院生時代に『日本史』を通読したが、バテレン追放令など日本の法令を実に正確に翻訳していることに仰天した。宣教師たちの精度の高い情報収集力と豊かな語学力が、島国日本を世界政治の舞台に導いたのである。

かつて国際貿易港として栄えた横瀬浦

かつて国際貿易港として栄えた横瀬浦

かつて教会や関係施設が建ち並んだ故地につくられた公園を散策しながら気になったのは、「寺屋敷」の地名の通り、ここにはもともと仏教寺院があったと思われ、破壊された墓石が点在していたことである。入信した純忠は、敬虔というよりも頑固な信者になったため、徹底的に寺院や墓などを破壊したと言われるが、その関係遺物かもしれない。

純忠の信仰心が、湊町横瀬浦を国際貿易都市へと押し上げたのだが、それ故の仏教徒弾圧が、やがて家臣たちの反発を招き、当所を壊滅させる焼き討ち事件へと発展したのではなかろうか。以後、南蛮貿易の舞台は、長崎へと移ってゆくのである。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」が単行本になりました。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442

『半島をゆく 信長と戦国興亡編』 1500円+税

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