『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。

文/藤田達生(三重大学教授)

読者諸賢は、斗南藩(となみはん)のことをご存じだろうか。

会津藩主であり京都守護職だった松平容保(かたもり)は、戊辰戦争で新政府軍に徹底抗戦したため、明治元年(1868)に23万石の所領を没収されて蟄居の身となった。翌明治2年に赦免されたものの、嫡子・容大(かたはる)が陸奥の北郡・三戸郡・二戸郡内にわずか3万石を与えられて斗南藩を立藩した。つまり、斗南藩というのは明治になって生まれた藩なのである。

藩名の由来には諸説ある。同藩出身の柴五郎(後に陸軍大将)によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北極星より南はみな天皇の領土である)からとったものとし、現在はこの説が広く受け入れられている。しかし、実は出典が不明であり、なかには南すなわち憎むべき薩長両藩と斗(闘)うという解釈まである。

今回、私たちは本州最北端の下北半島に、明治時代に立藩された斗南藩を訪ねる旅に出た。

海路をとった会津藩士上陸地から海を望む。

時は厳寒の2月、本年の冬の寒さは全国的に格別だったが、そのなかの強行軍である。筆者にとって下北半島のイメージは、1965年に公開された内田叶夢監督「飢餓海峡」(原作・水上勉)の一場面にある。

主人公・樽見京一郎(三國連太郎)が下北半島を逃亡するシーンに、深山のなかを進む軽便鉄道や口寄せをおこなう恐山のイタコが映っており、また大湊で一夜をともにした杉戸八重(左幸子)の信じられないほどの一途さが、少年時代の筆者に強烈なイメージを焼き付けた。戦後の貧困な時代の哀れな物語と下北半島が二重写しになっていたのだが、この半島には会津人の「流刑」の歴史が刻印されていたのだ。

遠路の筆者は、編集者I氏の計らいで青森市内で前泊させてもらった。一昨年のねぶた祭で、若者たちの一団に混じり熱い宵を経験したのだが、今度はそれとは打って変わった深閑とした夜中の町並みを、凍った路面を気にしながらホテルにたどり着いた。大雪が道筋に並行して高く積み上げられており、南国にはない厳しい生活を強いられていることに、あらためて気づかされた。

翌日は、第三セクター・青い森鉄道(旧東北本線の盛岡─青森間のうち青森県内の部分)で野辺地駅まで向かい、「半島をゆく」取材スタッフと合流した。斗南藩の支庁が置かれたここから、斗南藩の藩庁が置かれたむつ市めざしての旅の始まりである。

半島縦断の途中、鷹架沼(たかほこぬま)に立ち寄り、太平洋から陸奥湾までを掘り抜く運河計画地を遠望した。斗南藩少参事だった広沢安任は、青森県知事とともに内務大臣にこの大事業を進言したというが、残念ながら実現はしなかった。

同行の安部龍太郎さん曰く「広沢独自の発案と言うよりも、それこそ津軽安藤氏の時代から、このようなアイデアはあったと思われますし、物流もここで太平洋から陸奥湾へと動いたのではないでしょうか」と。なるほど、確かに和船の航海技術では風波厳しい尻屋崎の難所を越すのは大変だったから、半島の東西の距離がもっとも短いここに目をつけたというのは、理にかなっている。

下北半島は、火山灰によって形成されたローム層が覆っており、元来農業には不向きな地だったから、藩は北方流通のなかで利益を上げねば藩士とその家族を養えなかった。そのために大湊に着目したのであるが、半島特産の昆布、海苔、帆立貝柱、干鮑などを中国に輸出するという構想があったという。

斗南藩「下北残酷実話」

私たち一行は、むつ市内に入って斗南藩の関係史跡を訪ねた。明治3年4月に、旧盛岡藩・五戸代官所(青森県五戸町)を斗南藩の仮の藩庁した。ひとまずここに、新藩主・松平容大と、生き残った旧会津藩の藩士とその家族たちが移住したのだった。

先に登場した柴五郎であるが、彼は会津藩上級家臣の柴家の五男として誕生し、幼少時に会津戦争、東京での捕虜生活、そして田名部(むつ市)への移住を経験した。その頃の記憶をもとに晩年に石光真人氏がまとめた『ある明治人の記録』(中公新書)が、巷間に知られている。

五郎少年は、一家とともに東京の捕虜収容所に収容されていたが、アメリカの蒸気船で200余名の藩士同行者と一緒に、5月に汐留から一路、新天地をめざした。記録によると、藩士たちは自由に落ち着き先を選択できたようで、会津210戸、農商になる者500戸、江戸などに分散する者300戸、北海道に行く者200戸、そして新領地には2800戸と記されている。

慣れぬ船旅による猛烈な船酔いに苦しみつつも、五郎少年は無事6月に野辺地に到着した。それに比して、会津に残留していた人々は悲惨の極みだった。約600キロの長途を老若男女が徒歩で移動したのであるが、十分な旅費さえ支給されなかった。前年が凶作だったことから、藩が用意した宿札では十分な待遇が得られなかったのである。移住の時期もバラバラで、秋に移動した者のなかには、みぞれや風雪に打たれて病死する者もあった。

さらに、現地の生活は困難を極めた。政府から藩に支給された扶持米が、一人あたり一日わずか3合だったから、たちまち生活にも事欠いた。零下20度を超える寒さと食糧不足から、明治3年の冬を越せなかった者も少なくなかった。斗南藩関係者がもっとも落命した時期が、明治3年の長途移住から極寒越冬の時期にかけてだった。まさしく、「下北残酷実話」である。

大義なき戦いだった戊辰戦争

家督の松平容大が幼少(明治2年誕生)だったため、家老の山川浩(大参事)と広沢安任(小参事)や永岡久茂(小参事)の三人を中心に藩政は運営されていった。

藩は,田名部郊外の妙見平に目をつけて斗南ケ丘(むつ市)と名付け、長屋群を建設して開拓の基地とした。私たちは、斗南ケ丘を訪れ旧藩士会・斗南會津会のみなさんと対面した。

斗南藩史跡地で「斗南會津会」の方々と。

山本源八さん(会長、家老内藤信節の曾孫)・小町屋侑三さん(顧問)・目時紀朗さん(相談役)のお三方である。そして、いまだここで生活を続けておられる藩士末裔の島影秀子さんにもご一緒いただいた。斗南ケ丘には、墳墓の地と言われる藩士とそのご子孫の墓所もあり、目時さんから懇切なご説明をいただいた。

柴五郎居住地跡で小町屋侑三さんと。

藩士会の皆さんからは、戊辰戦争がいかに薩長両藩による「大義なき戦い」だったのか、会津藩に対する処遇がいかに非人道的だったのか、厳しい自然環境のなかで藩士とその家族がいかに生き延びたのか、などをお聞きすることができた。

最後まで京都守護職を務め通した名門・会津松平家が「朝敵」とされたのは、そもそもあり得ない話である。関係者の皆さんと夕刻に懇親会をもったが、熱のこもったお話をお聞きしながら、わだかまりの根源はここにあると確信した。

ちょうど本年、明治150年を迎えようとしている。近年においては、明治維新の見直しが叫ばれるようになっている。かつての高度成長期さなかの明治百年のように(1968年)、好意的に評価できるような「革命」ではなかったのではないか、との声があがっている。これは、歴史学界においても然りである。薩長による武力近代化路線に誤りはなかったのか、この点が冷静に問われているのである。

明治の元勲に勝るとも劣らぬ有為な人材が、会津藩をはじめとする東北諸藩にも数多くいたのではないか。彼らの人生は、この非道な戦争で挫折を余儀なくされた。それ以前に、万を超える無辜の民が塗炭の苦しみを味わうような内戦はあってはならない。ホテルに帰ってから、このような問いかけが頭から離れなくなってしまった。

多くの斗南藩士が眠る「斗南藩墳墓の地」

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」が単行本になりました。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442

『半島をゆく 信長と戦国興亡編』 1500円+税

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