『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。
文/藤田達生(三重大学教授)
中世武士にとって鎌倉は聖なる都である。近代の軍都横須賀を後にした私たち一行は、鎌倉をめざした。当所は、三浦半島の付け根に位置するが、伊豆半島と房総半島を含めた相模湾に面する沿海地域の、ほぼ中央にあたる。
街道が未発達な中世において、関東平野を背景にした鎌倉は、海の道に直結する一大港湾都市でもあった。
10年以上も前、学生諸君と円覚寺を拝観し、そこから鶴岡八幡宮を参拝して、若宮大路の段葛を経て、由比ヶ浜まで歩いたことがある。鎌倉の領域は、想像以上に狭いと感じたことが懐かしい。コンパクトであるにもかかわらず、この古都は南北・東西で異なる要素からなる。南北軸については、これまでも条坊制都市・京都になぞらえて語られてきたが、ここでは別の視覚からご案内したい。
北は、内裏にたとえられる鶴岡八幡宮と、それから南に一直線に下る朱雀大路にたとえられる若宮大路の周辺に形成された政治ゾーンと、さらにその南部に広がる浜や湊の活気あふれる商業ゾーンから構成される。
北部には、源頼朝をはじめとする歴代の将軍御所が点在し、若宮通りに背を向けるように武家屋敷が軒を連ねた。鶴岡八幡宮と若宮大路の南北ラインは、頼朝の頃に整備されたようであるが、それ以外の大路・小路・辻子・辻については、13世紀中葉以降に整備されたと推測されている。
私たちは、鶴岡八幡宮を参拝した。
治承4年(1180)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った頼朝は、同月12日にそれまで由比郷鶴岡(鎌倉市材木座)に鎮座する源頼義や源義家といった河内源氏ゆかりの八幡宮を、現在の地・小林郷北山に遷座した。
その後、北方に備える守護神として八幡神を祭った当地は、幕府を荘厳する聖なる空間となった。
これに対して南部の空間は、現在の海岸線よりも稲瀬川と滑川の河口部で大きく北に入り込んだことが指摘されている。いずれも、河川の氾濫によるものである。現在と異なる大きな特徴は、長谷から由比ヶ浜にかけて大規模な砂丘が存在したことだ。堆積のもっとも厚いところで、10メートル前後にも達したという。
砂丘頂部から海岸線までの南斜面すなわち「前浜」からは、数百体にも及ぶ中世人骨が出土している。集団墓地的な様相を示しているようだが、ここには建物遺構も発見されているのだ。そのなかには、方形竪穴建築という特徴的な半地下式の住居もみつかっている。これらの遺構は、混然一体となっているそうである。ここには、当時にあっては新興宗教とも言うべき一向宗や日蓮宗の拠点道場があり、にぎやかな都市的空間が形成されていたと推定されている。
浜の東南地域には、和賀江島という人工島が築かれた。ここを中心とする浜辺は「西浜」とよばれた。貞永元年(1232)に、勧進聖の往阿弥陀仏が幕府に埋め立てを申請して、時の執権北条泰時の後援を得て普請したものである。同年の8月に、わずか23日間で埋立工事が完了している。私たちはここを訪れたが、運よく干潮時だったため、島の痕跡がよく確認された。
なお、鎌倉時代に律宗の僧侶で民衆救済で知られる忍性が極楽寺(鎌倉市)の長老となってからは、和賀江島や関米を徴収する権利が同寺に与えられた。和賀江島には、唐船が入湊するなど、鎌倉でもっとも殷賑(いんしん)を極めた国際商業ゾーンとなっていた。
続いて、東西の世界である。鎌倉の西側の高みには、かつては南から極楽寺・長谷寺・高徳院などが続いた。私たちは、長谷寺を訪れ、ご本尊の長谷観音すなわち十一面観音像を拝観させていただいた。これは、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の十一面観音像と同木から造られたものと伝えられている。
境内に併設されている観音ミュージアムでは、梵鐘(重要文化財)や十一面観音懸仏(重要文化財)などを堪能した。境内からは、隣接する寺社がよく見通せた。ここは、西方浄土にたとえられたばかりか、西からの攻撃を意識した要害ゾーンとも考えられる。
保存された「まんだら堂やぐら群」
鎌倉の出入り口は、七つの「切通し」で有名である。崖を垂直に削って狭い出入り口を設け、容易に敵対勢力が侵入できないようにしたのである。これらは「七口」といわれたが、朝比奈と名越(なごえ)以外の五つの切通しは鎌倉の西側に存在する。
西は宗教的世界であるのと同時に、軍事的要地でもあったのである。事実、元弘3年(1333)年5月の鎌倉攻撃においても、新田義貞は西側の稲村ヶ崎方面から侵入している。
これに対して、鎌倉の東側の世界はどうだろうか。私たちは、東の押さえにあたる名越切通しに向かった。ここは、三浦半島方面へと続く陸路の要衝にあたり、13世紀に整備されたもので、現在は逗子市域に含まれる。『吾妻鏡』の天福元年(1233)8月18日条には、「名越坂」として初登場する。
逗子市の亀ヶ岡団地口から山中に入って大町口をめざす。しばらく行くと第1切通しである。関門をさらに進むと第2・第3の切通しへと至る。それぞれの道幅はきわめて狭く、人の往来には不便だったように思ったが、実は地震などで後に狭まったそうだ。また、横矢をかけるには都合のよい場所もあり、往時の鎌倉への大軍を擁しての侵入は、なかなか難しかったであろうと感じた。
そのあと第2切通しに戻って、「まんだら堂やぐら群」に向かった。今を去る35年も前のこと、筆者が大学院生時代に遺跡保存運動の場を見学しにやって来て以来である。
昭和51年に古都保存法が制定されていたにもかかわらず、当時の鎌倉は建設ブームで沸き返っていた。崖に穿たれた穴に、石塔を造立して納骨・供養するやぐらは、都市開発に伴って次々と破壊されていたのである。その折りに、代表的なやぐら遺構として有名なここにうかがったのだ。
国東半島編でご案内・お世話いただいた別府大学の飯沼賢治先生が、一生懸命にやぐら遺構の保存運動に取り組んでおられる姿に接したのは、この折のことだった。やぐら群の規模に圧倒されたことが、まるで昨日のことのようによみがえってきた。約2メートル四方のやぐらが、150以上も並んでいるのである。ただし重みに耐えかねて壊れそうなものもあり、気になった。
鎌倉は、鶴岡八幡宮を中心とする聖なる空間を中核に形成されていたが、周縁部には前浜の共同墓地とみられる遺構や「まんだら堂やぐら群」をはじめとするやぐら群が存在した。死の穢れを、外部に押しやるという意識が長らく保たれていたのだ。
鎌倉将軍や室町時代の鎌倉公方がいなくなって後にも、鎌倉は武士にとって特別な聖域であることに変わりはなかった。それゆえに、戦国時代に関東の覇者となった北条氏も城郭を構えることができなかったのだろう。周縁部に玉縄城(鎌倉市)が築かれたのだが、伊勢宗瑞(北条早雲)の実子で初代城主の氏時をはじめ、一門の有力武将が歴代の城主として配置された。
武家の都は、やがて鎌倉から江戸湾の最奥部に位置する江戸に移動する。元来、関東平野は、香取の海をはじめとする多数の湖沼が点在する広大な低湿地だったのであるが(房総半島編を参照のこと)、戦国時代以降、干拓が進んで豊かな穀倉地となるに及んで、後背湿地から巨大平野へと変化したことによるものであろう。
浦賀と横須賀そして鎌倉へと3日間に及んだ三浦半島の旅は、時代こそ異なるものの、軍事という共通テーマでくくることができる。相模湾から江戸湾への世界は、古代以来、歴史を推進する海の一大動脈を形成していたのである。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。
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『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
(安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
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