文・写真/福成海央(海外書き人クラブ/オランダ在住ライター)

オランダ南部の街、マーストリヒトの近くにオランダ、ドイツ、ベルギーの3つの国境が接する三国国境地点がある。このような三国地点は世界中には175か所ほどあるそうだが、ここの三国地点で接する国々はシェンゲン協定を結んでおり、ビザが無くても行き来が可能だ。つまり厳重なゲートや国境警備隊のようなものはなく、むしろ気軽に3つの国を回れるとして人気の観光地である。しかし訪れる観光客の多くは気づいていないかもしれない。かつてここには第4の国が存在していたこと。そして世界の歴史の中でも非常にまれな、4つの国境が接する地点だったことに。

第4の国 中立モレネ
1816年から1920年という短い期間であったが、この地には「中立モレネ」という国も接していた。正確には独立国家ではなく、現在のドイツとベルギーによる共同主権地域だ。しかしなぜモレネという国ができたのか。その理由は亜鉛鉱山にあった。

時はナポレオンの時代に遡る。ワーテルローの戦いでナポレオンが失脚し、ヨーロッパ各国で国境線の引き直しが行われた。しかし亜鉛鉱山があるこの地域はプロイセン(現在のドイツ)、ネーデルランド(現在のオランダ。だがこの地域は1830年に独立してベルギーとなった)とも譲らなかった。結果的に鉱山地域を三分割し、それぞれをプロイセン、ネーデルランド、そして当面の間両国が統治する共同主権地域の3つに定めたのだ。当時のヨーロッパで亜鉛が産出されたのは他にイギリスのブリストルしかなく、亜鉛鉱山を押さえることは産業上重要だったことが伺える。
さて、三分割された真ん中の地域が「中立モレネ」となったのだが、面積約3.5平方キロメートルという小さな国だがちゃんと人が住んでいた。当初の住民はたった256人だったが、鉱山開発の全盛期には4600人ほどが住んでいたらしい。しかし2つの国が統治するというのは、なかなか一筋縄ではいかない状況だったようだ。
例えば法律。どちらかの国の法律を使うわけにはいかず、かつてこの地域が使用していたナポレオン法典が使用された。すでにナポレオン失脚後の時代であるにも関わらずだ。行政の長である市長は両国から派遣された弁務官が指名したが、住民に選挙権はなかった。住民には国籍もなかったが、その代わりに兵役もなかった。この兵役免除を目当てにドイツやベルギーから移住してくる人々もいたが、その後彼らには祖国から兵役が課せられるようになったそうだ。
モレネが人々を惹きつけた裏の理由
住民の普段の生活はどうだっただろう。鉱山開発を行っていたヴィエイユ・モンターニュ鉱業会社が、従業員のために行政に代わって病院や学校や教会を整備した。通貨は一時的に独自の通貨が流通したこともあったようだが、フランスのフランが法定通貨として用いられた。ただ当時のプロイセンが使っていたマルクやネーデルランドのギルダーも流通していたそうだ。そして税金は安く、他国からの関税もかからなかった。
このような生活環境の良さ、亜鉛鉱山業の発達によってモレネには多くの人が集まった。しかし、モレネが人を寄せ付けた理由が他にもある。それはナポレオン法典の抜け穴をついた「酒」と「賭博」だった。モレネでは個人消費に限って酒の製造が認められていたのだが、実際には多くの密造酒が作られ、隣国に輸出されていった。またヨーロッパでは19世紀後半から賭博の取り締まりが厳しくなってきたが、モレネでは営業が続けられていた。どちらも古い時代に作られたナポレオン法典においては違法ではなかったのだ。そういったうまみを求めて、他国から多くの人々がモレネに集まった。

新たなアイデンティティを求めて
しかし主要産業であった亜鉛鉱山は、まもなく終焉を迎える。採掘が終わり、1885年に廃鉱となったのだ。そこからモレネの住民は新たなアイデンティティの確立として、独自の国家としての歩みを模索し始めた。
ここでキーマンとなるのが、鉱山病院の主任医師だったウィルヘルム・モリー博士である。彼は切手収集が趣味だったこともあり、1886年にモレネに独自の郵便機関の設立と切手の発行を試みた。結果的にベルギーからの干渉によってたった2週間ほどで発行禁止となってしまったのだが、その希少さから逆に、切手収集家たちにとってモレネの切手は大変珍しいものとなった。
そしてもうひとつモリー博士の大きな挑戦が、エスペラント語をモレネの共通語にしようとしたことだ。エスペラント語とは、1887年にポーランド人のルドヴィコ・ザメンホフが考案した新しい言語である。母語が異なる人同士がコミュニケーションを取ることを目的に、世界中の人が学びやすいような簡潔な文法で作られている。モリー博士は、当時エスペラント語の普及を目指していたフランス人のギュスターヴ・ロイ教授と知り合い、共にモレネを世界初のエスペラント国家にすることを考えた。エスペラント語を公用語とする国を作ることで、さまざまな言語が入り混じるヨーロッパの民族間の隔たりを無くしたいと考えたのだ。新しい国家の名前はAmikejo(アミケヨ)。エスペラント語で「友情の地」という意味である。

1908年8月13日にはモレネ国民を全員集めて大々的な集会を行い、新しい国家の設立を訴えた。また将来の国歌とする楽曲の演奏も行われた。その直後の8月18日、ドイツで開催された第4回世界エスペラント大会では、ジュネーブにあったエスペラント協会を移転し、モレネを本拠地とすることが承認された。モレネではエスペラント語普及を目指す有志たちによって語学講座が開かれ、エスペラント語を話せる国民が少しずつ増えていった。
モレネ、そして四国地点の消滅
しかしそういったモレネの挑戦は、第一次世界大戦によりあっけなく終わりを告げられる。1914年、ドイツ軍がベルギーに侵攻したのだ。モレネも同様に、ドイツ軍の占領下地域となった。中立地域が崩壊したのだ。そして第一次世界大戦終了後、ベルサイユ条約によって再度国境線の引き直しが行われ、モレネはベルギーに編入されることになった。こうして正式に、モレネは姿を消した。

このような歴史を経て、104年間存在した四国地点は消滅してしまった。2025年現在、世界では4つの国が交わる地点はない。人類の歴史の中で国境線の引き直しは、戦争など争いごとのあとに行われてきた。戦争を体験せずに生きてきた私としては、今後もこの三国地点はこのままでいてほしいと強く願う。同時に日本で生活していた中では実感することがなかった「属する国が何度も変わる」という現実があったことに、今更ながら驚いた。

この三国地点、日本から行きやすいのはオランダからのルートだ。日本から直行便も運行しているスキポール空港からマーストリヒトまで電車で2時間半。マーストリヒトからバスで30分ほどで三国地点ふもとの町ファールスに到着する。そこからタクシーを使い10分で到着だ。ちなみ三国地点は標高322mの「オランダ最高峰地点」のすぐそばにあり、周辺はハイキングルートも整備されている。低地の国ならではの最高峰を感じながら、約40分のハイキングで向かうのもいいだろう。

ここには三国地点の他、レストランや子ども向けの遊具も整備されている。そして有料の迷路施設があるのだが、そこにはかつてモレネが目指したエスペラント国家「Amikejo」の名前が付けられた建物がある。モレネの歴史の解説板は、その近くに置かれている。しかし三国地点からは少し離れているため気づかない人も多い。ぜひ解説板を見た後に、かつて4つの国境が接していた三国地点に立ち、それぞれの国が歩んできた歴史に思いを馳せてみてほしい。
LABYRINT DRIELANDENPUNT
Viergrenzenweg 97 6291BM Vaals Nederlands
https://www.drielandenpunt.nl/
【参照ウェブサイト】
・Belgique Insolite
https://belgiqueinsolite.com/blog/entre-curiosites-et-neutralite-l-histoire-fascinante-de-moresnet-neutre/
・VMZINC
https://www.vmzinc.com/nl-nl/over-vmzinc/saga-la-vieille-montagne/episode-4-de-mijn-van-moresnet
・Käte Hamburger Kolleg: Cultures of Research (c:o/re) of Aache
https://khk.rwth-aachen.de/2311/
・国際補助語としてのエスペラントと中立性
―ドイツ・ベルギー国境地帯の複言語的状況の特殊性に着目してー
https://www2.dokkyo.ac.jp/ger/resources/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6/77/kurogo_2020.pdf
文・写真/福成海央 (オランダ在住ライター)
2016年よりオランダ在住。元・科学館勤務のミュージアム好きで、オランダ国内を中心にヨーロッパで訪れたミュージアム、体験施設は100か所以上。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。
