東京方面から東海道新幹線のぞみで名古屋駅に向かう際に、〈三河安城駅を通過しました〉という電光掲示に接すると、「もうすぐ名古屋(約10分)」ということを感じさせてくれる。
旧国三河西部に位置する安城には、戦国時代、安祥城(現・安祥城址公園)があった。東に松平氏の本拠岡崎城(岡崎市)、西には水野氏が拠る刈屋城(刈谷市)がある要衝に位置し、安祥城を巡って織田と松平は幾度も争っていた。
安城市教育委員会設置の現地看板にはこうある。
〈1472年(文明3)ころ、松平信光が攻め取り、50余年間、安城松平四代(親忠、長親、信忠、清康)の居城となりました。また松平氏の本拠が岡崎城へ移ると、この城をめぐって松平・今川氏と織田氏の間に、1540年(天文9)から10年の間に5度に及ぶ攻防戦がくりひろげられました〉
合戦の発端は、天文4(1535)、松平清康(家康の祖父)の三河一国掌握にさかのぼる。勢いに乗じた清康は、尾張に軍を進め、織田信秀方の守山城(名古屋市守山区)を攻めた。ところが、清康は家臣の阿部正豊に殺害されてしまう。世上、「森山崩れ」と称される事件は、
●尾張の織田信秀と三河の松平信定(清康の叔父)
●(信秀と対立する)織田藤左衛門尉家と松平清康
の複雑な対立構造が引き起こしたともいわれ、以降、尾張と三河は混沌とした情勢になるのである。
10年戦争に翻弄された竹千代母の於大の方
天文9年(1540)、織田信秀が刈屋城の水野忠政とともに松平家の拠点安祥城を攻めた。
水野忠政とは、『麒麟がくる』で岡村隆史演じる菊丸を忍びとして雇っている水野信元の父にあたる人物。その翌年には、織田方から松平方に転じて、忠政息女の於大の方は松平広忠に嫁ぐことになる。
広忠と於大の方との間に嫡男竹千代が誕生するのが天文11年(1542)12月だ。しかし、翌天文12年(1543)、水野忠政が亡くなると、跡を継いだ信元は、再度織田方に寝返り、於大は松平広忠から離縁されて、刈屋城に戻されることになる。
国人領主として生き残りをかけた水野氏。江戸時代後期に天保の改革を主導した老中・水野忠邦は、水野信元の弟・忠守の子孫になる。
この間に、松平竹千代は織田方の人質となり、織田方に奪われた安祥城には、信長の庶兄にあたる織田信広が入城していた。
母が側室であったため、嫡男とされなかった信広だが、対三河の最前線・安祥城を任せられていることを考えると、父・信秀からの信任は厚かったと思われる。
こうした状況の中で、『麒麟がくる』でも描かれた松平広忠の死(天文18年3月)を迎える。広忠の死を怒った今川方が、安祥城に軍を進めたというわけだ。
劇中の天文18年11月は、史実の織田信長が、熱田八ヶ村に制札を出した時期に重なる。
合戦の回数や年次など不確定要素が多い尾張と三河の〈10年戦争〉だが、後に徳川四天王と称される本多忠勝の祖父・忠豊、父・忠高が討ち死にするなど、織田、松平方双方に多くの犠牲者が出た。今も安城市内には、一連の合戦での犠牲者を祀る塚が残されているという。
そして、この人質交換騒動の後も、尾張と三河の間の小競り合いは続く。
天文23年(1554)、今川義元は北条氏康、武田晴信と甲斐・相模・駿河の三国軍事同盟を結ぶことになる。東からの脅威が減じた今川義元は、積極的に尾張への軍事行動をとるようになる。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いは、尾張と三河との長年の戦いの延長線上に起きたのである。
文/『サライ』歴史班 一乗谷かおり