◎No.35:堀辰雄の蓄音機(撮影/高橋昌嗣)
文/矢島裕紀彦
長野県軽井沢町にある軽井沢高原文庫に、堀辰雄の山荘が移築されている。昭和16年(1941)から19年まで、毎夏を過ごした建物である。
辰雄愛用の蓄音機は、その山荘の一室に、ひっそりと置かれていた。昭和14年(1939)春に入手した、米国製の手廻しの蓄音機。辰雄はこれを使って、クラシックの名曲の数々に耳を傾けた。
実のところ、辰雄の小説の誕生には、クラシック音楽が深く関わっていた、と辰雄の妻・多恵さんに聞いたことがある。代表作のひとつ『美しい村』は、バッハの『ト短調の遁走曲』にヒントを得てフーガ形式で書かれたものだった。また、「本当に小説らしい小説を書いた気のする作品」と辰雄自ら称した『菜穂子』が完成するまでにも、ショパンの『前奏曲』やシューベルトの『冬の旅』が大きな力づけになっていたという。
作家の中村真一郎が、まだ学生時代、訪問した堀家で突然の胃痙攣に襲われたとき、医師が到着するまでの間、苦痛を少しでも和らげようと辰雄がその耳もとで鳴らしたのも、この蓄音機だった。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。
写真/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。雑誌のグラビア、書籍の表紙などエディトリアルを中心に従事する。
※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。