■ジャズマンとの広い人脈
ヘレン・メリル、本名イェレナ・アナ・ミルチェティッチは1930年(昭和5年)にジャズの中心地、ニューヨークに生まれました。両親はクロアチアからの移民です。クロアチアは旧ユーゴスラヴィアに属していましたが、その前はオーストリア=ハンガリー帝国の一部でした。アメリカは移民国家ですが、メリルは移民2世ですから、どちらかというと新参者ということになります。
メリルは14歳でニューヨークの中心、マンハッタン島の北に位置するブロンクス地区のジャズ・クラブで歌うようになります。ちなみに当時のブロンクスはあまり治安がよくなく、少し前まで施行されていた禁酒法時代はギャングたちの闇酒場が多数あったそうです。第2次世界大戦が終わった直後の46年から翌年にかけてメリルはビッグ・バンド歌手として活動していますが、まだ10代です。そして彼女が18歳を迎えた48年にクラリネット奏者、アーロン・サックスと結婚し、のちにシンガー・ソングライターとして活躍したアラン・メリルを産んでいます。この時期メリルは音楽活動を中断していますが、56年にサックスと離婚してしまいました。
メリルの名前が広くファンに知れわたったのは、54年の年の瀬も押し詰まった12月22日からクリスマス・イヴにかけての初レコーディングがきっかけでした。まだ若手だったトランぺッター、クリフォード・ブラウンを従えたアルバム『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』が好評をもって迎えられたのです。例のヒット曲「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」が収録されている名盤です。
その後は第17号「ヘレン・メリル」で紹介した名アレンジャー、ギル・エヴァンスとの共演アルバムを制作したり、また、今回収録したテナー・サックス奏者、スタン・ゲッツ、ベーシストのロン・カーターらとの共演など、ジャズ界の幅広い人脈との交流が彼女の音楽活動の幅を広げていきました。こうしたジャズ・ミュージシャンたちとの人脈がもととなって、メリルはプロデュースの世界にも手を染めています。
また66年ごろにUPI通信のアジア総局長、ドナルド・ブライドンと結婚し、しばらくの間日本に居住していました。この時期彼女は日本のジャズ・ミュージシャンたちとの共演も数多く行ない、日本びいきとなったのです。ヘレン・メリルは日本人好みの歌手であるだけでなく、メリルもまた日本が好みだったのです。
文/後藤雅洋(ごとう・まさひろ)
日本におけるジャズ評論の第一人者。1947年東京生まれ。慶應義塾大学在学中に東京・四谷にジャズ喫茶『い~ぐる』を開店。店主としてジャズの楽しみ方を広める一方、ジャズ評論家として講演や執筆と幅広く活躍。ジャズ・マニアのみならず多くの音楽ファンから圧倒的な支持を得ている。著者に『一生モノのジャズ名盤500』、『厳選500ジャズ喫茶の名盤』(ともに小学館)『ジャズ完全入門』(宝島社)ほか多数。
※隔週刊CDつきマガジン『JAZZ VOCAL COLLECTION』(ジャズ・ヴォーカル・コレクション)の第45号「ヘレン・メリル vol.2」(監修:後藤雅洋、サライ責任編集、小学館刊)が発売中です(価格:本体1,200円+税)