堂上貴族らが居並ぶ場で五節舞(ごせちのまい)を舞ったまひろ(紫式部/演・吉高由里子)。『光る君へ』第4回を振り返る。
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ライターI(以下I):藤原道長(演・柄本佑)がまひろ(紫式部/演・吉高由里子)に自分の出自を明かそうとするタイミングで、藤原宣孝(演・佐々木蔵之介)がやってきました。
編集者A(以下A):素性を知らないとはいえ、下人風の装いの道長に対して宣孝が「お前は誰だ?」と言い放ってしまいます。時代劇の「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」では、後に素性を知って狼狽するという場面がお約束ですが、今後、宣孝が狼狽する場面が登場するのでしょうか。
I:それは「お約束」ですから、きっと登場するはずです……(笑)。さて、そういう何気ない流れの中で交わされた、宣孝とまひろとのやり取りが印象に残りました。まひろが「学問とは何のためにあるのでしょうか。『論語』も『荀子(じゅんし)』も『墨子(ぼくし)』も人の道を説いておりますのに、父上はその逆ばかりなさっています」というと、宣孝は「それは父上も人だからじゃ」と答えます。
A:確かに人間は自分の欲望を満たす可能性のある「人参」が目の前にぶら下がっていると容易に「転換」することがあります。「金」「異性」「出世」「名声」「物」などを求める深い欲望の淵に追い込まれた時、平時では思いもよらぬ行動をとったり、ありえない思考で行動したりしてしまう。いくら人の道、学問の王道を学んだとしても、平気で人の道に反することをしてしまうのが人間です。まひろも父に間者にさせられて腹を立てているのに、左大臣家の姫の暮らしぶりに興味があって承諾してしまう。それもまた人間だと宣孝に指摘されてしまいます。
I:そういう意味では、『光る君へ』の舞台になっている平安中期は、人間の華やかな部分、人間のいやらしい部分、欲望に忠実に生きる姿が凝縮された人間ドラマの宝庫ですよね。劇中に描かれる人間ドラマが、実は現代にも生きているということも感じています。
A:1000年の時を経てもなお、人の本質は変わらないということですね。
宇多天皇の孫という出自の左大臣家
I:円融天皇(演・坂東巳之助)が譲位して、師貞親王(花山天皇/演・本郷奏多)が即位したことで、藤原詮子(演・吉田羊)が生んだ懐仁(やすひと)親王が東宮(皇太子)となります。結果、新東宮の外祖父である藤原兼家(演・段田安則)に挨拶に訪れる公卿が引きも切らない様子が描かれました。
A:これもまた人間社会の縮図ですね。人は地位という「灯」のもとに集まり、「灯」が消えた瞬間に蜘蛛の子を散らすように人が去っていく。そうした理(ことわり)をわかっていても人は権力を求めてしまう。宇多天皇の孫で源姓を与えられて臣籍降下した源雅信(演・益岡徹)とて例外ないこともしっかり描かれました。
I:源雅信は娘の倫子(演・黒木華)に対して「私が隅に追いやられないためには倫子が新たな帝に入内するのが一番なのであるよ」と懇請します。宇多天皇の孫にあたる人物が権力闘争の渦中に身を投じなければならないほど、競争が熾烈だったということでしょうか。
A:蛇足ですが、左大臣源雅信の父である敦実(あつみ)親王は、宇多天皇の八男になります。
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