太皇太后として生涯を終える
遵子が皇后になって2年後。円融天皇は兼家に譲歩する形で、息子の懐仁親王の立太子と引き換えに譲位。頼忠は関白を辞職します。公任の出世は停滞し、要職にこそ付けませんでしたが、次第に歌人として名を上げていきました。遵子は里の四条第で暮らし、四条宮と呼ばれたと伝わります。
遵子は、思慮深く学識があるという意味の「いみじき有心者・有識」といわれ、深く仏道に帰依し、僧侶の供養を怠らず、天台宗の僧・源信(げんしん)が托鉢で訪れた際は、美しい器を用いたという逸話が残されています。また、公任の末娘を養女にして穏やかに暮らしたと伝わります。
正暦2年(991)、円融天皇に先立たれ、長徳3年(997)、出家。長保2年(1000)には皇太后に、一条天皇が崩御し三条天皇が即位すると、長和元年(1012)、太皇太后(たいこうたいごう)に叙せられました。
寛仁元年(1017)、60歳で没し、今は宇治市の宇治陵(うじのみささぎ)で静かに眠っています。
まとめ
藤原遵子の人生は、当時の多くの貴族の姫がそうであったように、政権を狙う家同士の争いの中にありました。子には恵まれませんでしたが皇后となり、女性では最高位に着いた人物ながら、遵子自身は終始、穏やかに暮らしていたことが、数少ない資料から伝わってくるようです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考文献/
『国史大辞典』(吉川弘文館)