晴れて皇后となったものの、子はなく
皇后の座は詮子が有利かと思われましたが、天皇が選んだのは遵子。円融天皇は、兄・冷泉天皇の子が成長するまでの中継ぎの天皇とも目されていて、そんな自身にいち早く娘を入内させた頼忠に、天皇が信頼を寄せていたということもあったようです。また、詮子より遵子のほうが早く入内していること、当時の最高位が頼忠であったことなども影響しているといわれています。
これに納得のいかない詮子は、兼家とともに実家の東三条邸に立てこもります。そんなとき、遵子の兄・藤原公任(きんとう)は、東三条邸の前で、「この女御は、いつか后にはたちたまふらむ(こちらの女御はいつ立后なさるのか)」と言ったため、兼家・詮子親子の恨みを買ったという話が残されています(『大鏡(おおかがみ)』)。
この余計な一言は、あとあと尾を引くことに。月日が流れ、一条天皇が即位したとき、詮子の女房の一人である進内侍(しんのないし)が公任に、「御妹の素腹の后はいづくにかおはする」と言い放ちます(『大鏡』)。素腹(すばら)とは「子どもの産めない」の意味。今とは時代が違うとはいえ、なかなか辛辣な言葉です。公任は手痛いしっぺ返しをされてしまいました。
【太皇太后として生涯を終える。次ページに続きます】