はじめに-藤原遵子とはどのような人物だったのか

藤原遵子(ふじわらのじゅんし/のぶこ)は、第64代・円融天皇の皇后です。摂関家による娘の入内合戦に巻き込まれながら、自身は穏やかな生涯を送りました。では、実際にはどのような人物だったのか、史実をベースに辿りましょう。

2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、円融天皇に入内し、藤原詮子(せんし/あきこ)と后の座を巡って競うことになる人物(演:中村静香)として描かれます。

藤原遵子

目次
はじめに―藤原遵子とはどのような人物だったのか
藤原遵子が生きた時代
藤原遵子の足跡と主な出来事
まとめ

藤原遵子が生きた時代

藤原遵子が生きたのは、有力貴族がこぞって娘を入内(じゅだい 天皇に嫁ぐこと)させ、己の権力掌握にやっきになっていた時代でした。入内した女性は、寵愛の程度や天皇の後継者たる親王を産むかどうかで、その地位や立場が左右され、それは実家の盛衰にも影響をおよぼしました。

藤原遵子の足跡と主な出来事

藤原遵子は、天徳元年(957)に生まれ、寛仁元年(1017)に没しています。その生涯を、主な出来事とともに紐解いていきましょう。

父の権力安泰のため天皇のもとへ

円融天皇の后・藤原遵子は、天徳元年(957)に誕生しました。父は太政大臣・藤原頼忠(よりただ)、母は代明(よしあきら)親王(醍醐天皇皇子)の娘・厳子(げんし)女王という名門の姫君です。父・頼忠は、貞元2年(977)、関白の座に着きますが、いまだ天皇との外戚関係はなく、政治的基盤が不安定であったことから、貞元3年(978)、娘・遵子を女御(にょうご)として入内させました。

実はこのとき、円融天皇にはすでに中宮・媓子(こうし/てるこ)がいましたが、媓子が天元2年(979)に没すると、次の中宮の座を巡って、頼忠の強力なライバルである藤原兼家(かねいえ)の娘・詮子と争うことに。兼家は遵子から遅れることおよそ1年、詮子を入内させており、天元3年(980)、詮子は、天皇の唯一の子である懐仁(やすひと)親王(後の一条天皇)を儲けていました。

晴れて皇后となったものの、子はなく。次ページに続きます

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