はじめに-円融天皇とはどのような人物だったのか
円融天皇(えんゆうてんのう)は、藤原氏の思惑に振り回され、藤原氏同士の権力争いが激化すると、それに巻き込まれ、時にあらがいながら、天皇として15年の歳月を過ごします。円融天皇とはどのような人物だったのか、史実をベースに辿ってみましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、藤原道長(ふじわらのみちなが)の姉・詮子(あきこ/せんし)が入内。外戚として権力を握ろうとする、兼家(かねいえ)・道長父子に翻弄される人物(演:坂東巳之助)として描かれます。
目次
はじめに―円融天皇とはどのような人物だったのか
円融天皇が生きた時代
円融天皇の足跡と主な出来事
まとめ
円融天皇が生きた時代
円融天皇は、藤原氏が摂政・関白を常設するようになった時期の天皇です。それはつまり、外戚(がいせき、母方の親戚)の権力争いに、天皇も巻き込まれるということにほかなりませんでした。
円融天皇の足跡と主な出来事
円融天皇は天徳3年(959)に生まれ、正暦2年(991)に没しています。その生涯を、主な出来事とともに紐解きましょう。
円融天皇、即位。藤原氏の絶対優位へ
円融天皇は、第64代天皇です。父は村上天皇、母は藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の娘、中宮・安子(あんし/やすこ)で、その3番目の皇子でした。諱(いみな)は、守平(もりひら)。村上天皇が崩御し、冷泉(れいぜい)天皇が即位すると、すぐさま後継者争いが始まります。冷泉天皇が病弱であったためだと言われています。
候補は、村上天皇の第4皇子・為平(ためひら)親王、そして守平親王。為平親王は、舅の左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)が推し、守平親王は伯父(中宮・安子の兄)の右大臣・藤原師尹(ふじわらのもろただ)が推しました。その結果、藤原氏の主張が通って守平親王が東宮となります。高明は左遷されました。
安和2年(969)、冷泉天皇が譲位し守平親王が即位。このとき親王はわずか11歳だったため、師尹の兄で先の関白だった実頼(さねより)が摂政に就任しました。以降、藤原氏により摂政・関白が常設されることとなり、藤原氏の権勢は他氏を圧倒し始めます。
権力は誰の手に? 関白職争いが激化する
天禄元年(970)に実頼が死去し、師尹が摂政を継ぎました。天禄3年(973)、円融天皇、元服。しかし、直後に師尹が死去すると、その弟の兼通(かねみち)と兼家が、関白職を巡って激しく対立します。円融天皇は、母・安子の「関白は兄弟の順に」という遺訓に沿う形で、兼通を関白に任命。兼通は、娘の媓子(こうし/てるこ)を入内させ中宮としました。
実は当初、円融天皇は、先の冷泉天皇の皇子が天皇になるまでの、「中継ぎ」とみなされていたようで、師尹など多くの貴族が、娘を入内させることにとまどっていました。しかし、兼通は天皇の元服後すぐに娘を入内させたこともあり、円融天皇と厚い信頼関係で結ばれます。
兼通が重病で臥すようになると、次の関白職を巡り争ったのが、かつて天皇の摂政だった藤原実頼の嫡男・頼忠(よりただ)と、再びの兼家。後任には頼忠が選ばれました。これには、兼通の意向もあったと言われています。兼通は、不仲の弟・兼家より頼忠を頼りにしていました。また、摂関家の嫡流の座を、兼家の子孫に占められることを恐れていたとされます。さらに、頼忠が娘・遵子(じゅんし/のぶこ)を入内させていたことも、理由のひとつと考えられます。
【藤原兼家、ついに娘を入内させる。次ページに続きます】