はじめに-藤原斉信とはどんな人物だったのか?
藤原斉信(ふじわらのただのぶ)は、平安時代中期の公卿であり、歌人です。時の権力者・藤原道長からの信任を得て、彼の腹心として仕えるようになった斉信。道長の娘たちや天皇とも親交があり、彼らを陰ながら支えていました。
また、平安時代きっての貴公子だったとされる斉信は、紫式部や清少納言の作品でも魅力的に描かれています。文化人として高く評価されていたことから、教養深い上級貴族というイメージが強いですが、実際の藤原斉信はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、出世し始めた道長の腹心として地位を築いた、四納言の一人(演:金田哲)として描かれます。
目次
はじめに―藤原斉信とはどんな人物だったのか?
藤原斉信が生きた時代
藤原斉信の足跡と主な出来事
まとめ
藤原斉信が生きた時代
藤原斉信は、康保4年(967)に生まれます。斉信が生まれた頃、藤原氏は貴族社会の頂点に君臨し、その勢力を拡大し続けていました。その中でも、特に格式が高い家系として一目置かれていたのが、藤原北家です。斉信も、北家に生まれ育ち、上級貴族として政界で活躍することとなるのです。
藤原斉信の足跡と主な出来事
藤原斉信は、康保4年(967)に生まれ、長元8年(1035)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
道長に見出される
藤原斉信は、康保4年(967)、太政大臣・藤原為光(ためみつ)の次男として生まれます。名門・藤原北家に生まれた斉信は、幼い頃から兄とともに様々な高等教育を受けていたそうです。立ち居振る舞いが非常に上品で、頭脳明晰だったとされる斉信。
長徳2年(996)、参議に任命されることとなります。さらにその5年後、政権の座に就いていた道長に見出され、兄・誠信(さねのぶ)を越えて、権中納言へと昇進しました。平安時代後期に成立した歴史書『大鏡』には、人望のない兄に代わって、聡明で人望の厚い弟・斉信が中納言に任命されたと記されています。
先を越されたことで、誠信は斉信と道長を恨み、憤死したという逸話も残されています。道長は、年齢が近く、同じ北家出身の斉信に対し、親近感が湧いていたのかもしれません。
【貴公子として注目の的になる。次ページに続きます】