はじめに-藤原穆子とはどんな人物だったのか?
藤原穆子(ふじわらのぼくし/むつこ)は、平安時代中期の貴族です。小倉百人一首にも歌が選ばれている歌人・藤原朝忠(あさただ)の娘として生まれた穆子。左大臣・源雅信(まさのぶ)と結婚し、娘の倫子(りんし/ともこ)を授かりました。
その後、倫子が藤原道長との結婚を望んだ際、雅信の猛反発を抑え、二人の結婚を許したとされます。そして結婚後、道長は氏長者として強い権力を有することができ、二人は子宝に恵まれるようになったのです。
まさに、藤原氏のさらなる繁栄のきっかけを作ったとも言える穆子。実際の藤原穆子はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、娘・倫子をのびのびと育てた、源雅信の妻(演:石野真子)として描かれます。
目次
はじめに―藤原穆子とはどんな人物だったのか?
藤原穆子が生きた時代
藤原穆子の足跡と主な出来事
まとめ
藤原穆子が生きた時代
藤原穆子は、承平元年(931)に生まれます。穆子が生まれた頃、貴族社会を牛耳るようになった藤原氏は、さらなる高みを目指して、身内同士で骨肉の争いを繰り広げていました。その後、藤原氏の政敵にあたる源雅信と結婚した穆子ですが、不思議な縁で藤原氏と関わっていくこととなるのです。
藤原穆子の足跡と主な出来事
藤原穆子は、承平元年(931)に生まれ、長和5年(1016)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
娘・倫子と道長の結婚を支持する
藤原穆子は、承平元年(931)、歌人・藤原朝忠の子として生まれました。朝忠は、三十六歌仙(藤原公任によって選ばれた、36人の優れた歌人)の一人であり、小倉百人一首にも歌がまとめられています。
穆子の幼少期や父親との関係性について、詳しくは分かっていませんが、源雅信との結婚の際、父・朝忠から土御門(つちみかど)第(邸宅)を譲り受け、雅信と同居したそうです。康保元年(964)には、娘の倫子を授かり、穏やかな家庭を築き上げていたとされます。
夫・雅信は宇多天皇の孫で、天皇家と深く関わっていたため、倫子を天皇の后にしようと考えていたそうです。倫子も、后となるべく、様々な教養を身に着けることとなりました。ところが、2歳年下の藤原道長に見初められた倫子は、彼との結婚を望むようになったのです。
後に関白となり、栄華を極める道長ですが、この頃はまだ出世の見込めない末っ子でしかありませんでした。また、雅信にとって、権勢を振るう藤原氏は政敵にあたります。そのため、雅信は二人の結婚を猛反対したそうです。
そんな雅信を説得したのが、彼の妻・穆子(ぼくし)であると言われています。穆子は、道長が将来大成することを予見し、二人の結婚を支持。穆子の説得の甲斐あって、永延元年(987)、道長と倫子は結婚することができたのです。
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