政権の座を巡り、兼家と争う
図らずも、関白として実権を握ることができた頼忠。娘の遵子を円融天皇の后につけ、外祖父の座を狙うこととなります。当時、夫婦の間に生まれた子どもは母方の両親に養育されるのが一般的であり、皇子を授かることで、外祖父として政治的権力を持つことができるからです。
しかし、遵子と天皇との間に、子どもは生まれませんでした。一方で、政権の座を巡って争っていた従兄弟・兼家は、同じく娘・詮子(せんし)を円融天皇の后につけていました。そして、詮子と天皇の間には、懐仁親王(やすひとしんのう、後の一条天皇)が生まれたのです。
これにより、兼家は外祖父として強い政治的権力を持つことに成功し、頼忠は名ばかりの関白になってしまいます。その後、皇子の擁立を切望した兼家の策略により、寛和2年(986)、時の天皇・花山(かざん)天皇が退位。懐仁親王が一条天皇として即位したことで、頼忠は失意のうちに関白を辞任することとなったのです。
文化面での頼忠
関白辞任後の永延3年(989)、66年の生涯に幕を閉じることとなった頼忠。政治面では兼家に敵いませんでしたが、花山朝に成立したとされる和歌集『拾遺和歌集』に歌が4首選ばれるなど、文化面で才能を発揮しています。
和歌に秀でていたとされる、頼忠。その才能は、道長政権下で華々しい活躍を見せた文人・公任にも受け継がれていたのではないでしょうか?
まとめ
従兄弟の争いに巻き込まれる形で、関白に就任することとなった頼忠。外祖父になることはできませんでしたが、関白として一定の地位を維持することができました。そして、時代は兼家や頼忠から、その息子の道長や公任へと移っていったのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『山川日本史小辞典』(山川出版社)