はじめに-藤原兼家とはどんな人物だったのか?

藤原兼家(ふじわらのかねいえ)は、平安時代中期の公卿です。のちに藤原氏の全盛期を築く道長の父であり、息子たちの昇進を強引に推し進めた人物でもあります。平安時代と言えば、藤原氏などの貴族たちが活躍した時代。華やかな印象が強いですが、実際は骨肉の争いを繰り広げる、壮絶な社会だったと言えます。

兼家もまた、兄・兼通(かねみち)と熾烈な権力争いを展開させました。兄に出世を妨害されながらも、あらゆる手口を使ってのし上がり、氏長者(うじのちょうじゃ、一族の中の最高権力者)への道を自ら切り開いていった兼家。

貪欲なまでに、頂点を目指した野心家というイメージがありますが、実際の藤原兼家はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、名家出身で、後に天皇の外祖父となる上級貴族(演:段田安則)として描かれます。

藤原兼家

目次
はじめに―藤原兼家とはどんな人物だったのか?
藤原兼家が生きた時代
藤原兼家の足跡と主な出来事
まとめ

藤原兼家が生きた時代

藤原兼家は、延長7年(929)に生まれます。兼家が生まれた頃、天皇家と密接な関係にあった藤原氏は、ほかの貴族たちを圧倒するほどの有力貴族へと成長していました。兼家は、藤原氏の中でも特に名門として知られた北家に生まれ、順調に官途を辿ることとなります。

しかし、彼の前にはいつも、兄・兼通という高い壁が立ちはだかっていたのです。

藤原兼家の足跡と主な出来事

藤原兼家は、延長7年(929)に生まれ、正暦元年(990)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

兄・兼通の恨みを買う

藤原兼家は、延長7年(929)、右大臣・藤原師輔(もろすけ)の子として生まれます。名門として名高い藤原北家に生まれた、兼家。生まれながらにして、強い権力を有していた北家の貴族たちが目指したのは、氏長者と呼ばれる最高権力者の座でした。

そのため、たとえ血のつながった家族であっても、政敵として足を引っ張り合うことはよくあることだったのです。兼家にも、兄・兼通という強力なライバルがいました。藤原氏について記された『栄花物語』や『大鏡』にも記述が見られるなど、二人は大変仲の悪い兄弟として知られています。

『色絵栄花物語冊子形硯箱』
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/G甲910?locale=ja

安和元年(968)、兼家が兼通の官位を超えて、従三位(じゅさんみ)・蔵人頭(くろうどのとう)に任命されたことで、二人の仲はさらに悪化することとなりました。その翌年、参議を経ずに中納言(太政官の次官)に任命された兼家。天禄3年(972)には、大納言(大臣に次ぐ重職)に任命されるなど、順調に昇進していくこととなりました。

しかし、弟の昇進を良く思わなかった兄・兼通は、彼を陥れようと画策します。兼通は、円融(えんゆう)天皇に対し、亡くなった兼通の妹であり、天皇の母后でもある安子(あんし)の遺言状を見せました。そこには、「関白は兄弟の順によるべし」と書かれてあったのです。

これを見た円融天皇は、遺言に従って、兄・兼通を関白に任命しました。兼通は、「今すぐにでも兼家を左遷してやりたい」と愚痴をこぼしていたとされ、自分より先に出世した兼家のことを、相当憎んでいたことが分かります。

兼通に報復されるも、出世への道を模索する。次ページに続きます

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