はじめに-藤原頼忠とはどんな人物だったのか?
藤原頼忠(ふじわらの・よりただ)は、平安時代中期の公卿です。後に藤原道長から重用されることとなる文人・藤原公任(きんとう)の父であり、道長の父・兼家(かねいえ)や叔父の兼通(かねみち)とは従兄弟の関係でした。
兼家と兼通の兄弟は非常に仲が悪く、関白を務めていた兼通は死の直前、兼家を関白にさせまいと、強引に頼忠を後任に推挙しました。これにより、頼忠は関白として実権を握り、娘・遵子(じゅんし)を円融(えんゆう)天皇の后につけることができたのです。
しかし、二人の間に子どもは生まれず、同じく娘を天皇の后につけ、皇子に恵まれた従兄弟・兼家が、次第に勢力を伸ばしていくこととなります。
勅撰和歌集に歌が選ばれている頼忠。文化面で大いに活躍することとなる息子・公任にも影響を与えたというイメージがありますが、実際の藤原頼忠はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、皇子に恵まれず、政治的権力を持つことができなかった、兼家のライバル(演:橋爪淳)として描かれます。
目次
はじめに―藤原頼忠とはどんな人物だったのか?
藤原頼忠が生きた時代
藤原頼忠の足跡と主な出来事
まとめ
藤原頼忠が生きた時代
藤原頼忠は、延長2年(924)に生まれます。頼忠が生まれた頃、天皇家との結びつきを強めて、勢力を拡大していた藤原氏は、氏長者(一族の中の最高権力者)となるべく、骨肉の争いを繰り広げていました。中でも、頼忠の従兄弟である兼通・兼家の兄弟は、数々の史料に記載されるほど、仲の悪い兄弟として知られています。
最後まで互いの足を引っ張り合った二人の壮絶な争いに、頼忠自身も巻き込まれていくこととなるのです。
藤原頼忠の足跡と主な出来事
藤原頼忠は、延長2年(924)に生まれ、永延3年(989)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
兼通から関白の座を譲り受ける
藤原頼忠は、延長2年(924)、藤原北家の嫡流である小野宮家の祖・藤原実頼(さねより)と、藤原時平の娘の次男として生まれました。父・実頼は、円融天皇の摂政(幼い天皇に代わって政治を行う役職)として活躍していました。
貞元2年(977)、左大臣に任命された頼忠は、父と同じく円融天皇の治世で活躍することとなります。一方で、頼忠が左大臣に任命された頃、従兄弟の兼通・兼家の兄弟は、対立を深めていました。自分よりも先に出世した弟・兼家を恨んだ兼通は、関白に就任した後も、兼家を左遷させるなど、彼の出世を妨害し続けたのです。
非常に仲が悪い兄弟として知られている、兼通と兼家。病に倒れた兼通は、死の直前、関白の座を弟の兼家ではなく、仲が良かったとされる従兄弟の頼忠に譲りました。一説では、病床に伏しているにもかかわらず、自身の邸宅を素通りして見舞いにも来なかった兼家に対し、腹を立てたためだと言われています。
兼通から関白の座を譲り受けたことで、頼忠は氏長者として実権を握ることができたのです。
【政権の座を巡り、兼家と争う。次ページに続きます】