宮中へ。中宮・彰子に仕える
紫式部が宮中へ上がったのは寛弘4年(1007)頃。藤原道長の娘で、66代・一条天皇の中宮(ちゅうぐう)・彰子(しょうし)に仕え、和歌や漢文などを教えました。『源氏物語』の評判を聞いた道長がその才を認め、式部に出仕を要請したともいわれています。
一条天皇没後も寛弘8年(1011年)頃まで彰子に仕え、この間に『源氏物語』を完成させました。『源氏物語』は宮中の女性たちの間で大人気に。藤式部から紫式部と呼ばれるようになったといわれています。
さて、出仕後の紫式部の消息はよくわかっていません。没年も長和3年(1014)、長和5年(1016)から長元4年(1031)など、6つほどの説があります。当時の宮仕えの女性ですから致し方のないことでしょう。
不思議な話が伝わる紫式部のお墓
墓所は、京都市紫野(北区紫野西御所田)にあります。
室町時代初期に書かれた、源氏物語の注釈書『河海抄(かかいしょう)』に、「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」という記載があり、古くからここが紫式部の墓、と認識されていたことがわかります。雲林院は平安時代には紫野一帯を占める敷地を有する大寺院でしたが、鎌倉時代に衰退。紫式部はこのあたりで生まれ、晩年を雲林院の白毫院で暮らしたと伝えられています。
ところでなぜ、小野篁(おののたかむら)の墓と隣接しているのでしょう。小野篁は平安時代初期の官僚で、この世と地獄を行き来し、閻魔大王のもとでも役人をしていたという伝説の人物。なんと、『源氏物語』が世の風紀を乱すとして、紫式部が地獄へ落ちたという話がまことしやかに広がり、これを救ってもらうため、小野篁の墓を式部の隣に移したという伝承があります。
『源氏物語』の謎とライバル登場!?『紫式部日記』
『源氏物語』54巻のうち、最後の10巻『宇治十帖(うじじゅうじょう)』には別の著者説があります。宇治十帖は光源氏の子と孫が主人公。紫式部自身は、光源氏の生涯を描いたところで完結させたのでは、などさまざまに議論されていますが、紫式部が書いたとの説も根強く、解明には至っていません。
『紫式部日記』は、彰子に仕えていた寛弘7年(1010)頃に完成しました。ここに記された「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、」(清少納言は得意げな顔をして漢字を書き散らかすけれども、)のなかなか辛辣な一説でも知られています。
ちなみに、清少納言(せいしょうなごん)は一条天皇のもう一人の中宮・定子(ていし)に仕えていましたが、それは紫式部が出仕する前で、ふたりは実際には顔を合わせたことがないと言われています。
まとめ
夫との死別という意外なきっかけから生まれた『源氏物語』。世界最古といわれる長編恋愛小説は、作者・紫式部の名とともにこれからも世界中で輝き続けることでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
引用・参考文献/
『世界大百科事典』(平凡社)
『全文全訳古語辞典』(小学館)