はじめに-天璋院とはどんな人物だったのか?

天璋院(てんしょういん)は、薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)の養女で、江戸幕府13代将軍・徳川家定(いえさだ)の正室です。後に14代将軍・家茂(いえもち)の正室となる和宮(かずのみや)とともに、徳川家の存続に尽力することとなります。

明治時代に入ってからは、徳川家の家格・家名の維持を目指し、徳川家16代当主・家達(いえさと)の養育に専念しました。篤姫(あつひめ)と呼ばれることもある天璋院は、徳川家の危機を救った救世主として語られることが多いですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

2023年NHKドラマ10『大奥 Season2』では、14代将軍・家茂の後見人として、幕府を支えた人物(演:福士蒼汰)として描かれます。

目次
はじめに―天璋院とはどんな人物だったのか?
天璋院が生きた時代
天璋院の足跡と主な出来事
まとめ

天璋院が生きた時代

天璋院は、天保7年(1837)に生まれます。天璋院が生まれる前年に起こった未曾有の大飢饉により、全国規模で餓死者が続出していました。幕府は、十分な政策を打ち立てることができず、民衆の不満が爆発。各地で打ちこわしや騒動が勃発してしまいます。

幕政の脆弱性が露呈し始めた不安定な時代に、天璋院は生まれたのです。

天璋院

天璋院の足跡と主な出来事

天璋院は、天保7年(1837)に生まれ、明治16年(1883)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

薩摩藩から徳川家に嫁ぐ

天璋院は、天保7年(1837)、薩摩藩主・島津氏の一門である今和泉(いまいずみ)家に生まれます。幼名は一子(かつこ)・於一(おかつ)で、17歳の時に薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、篤姫となりました。

島津家は当時、徳川家から将軍の結婚相手を要求されていました。そのため、適任だと考えられた天璋院が、藩主・斉彬の子として、徳川家に送られることとなったのです。しかし、将軍の正室は公家から迎えるという慣例に倣い、当時20歳だった天璋院は、近衛家の養女となって、名を敬子(すみこ)に改めます。

そして、安政3年(1856)、天璋院は13代将軍・家定の正室となったのです。若くして、徳川家に嫁いだ天璋院でしたが、家定が病弱だったこともあり、二人の間に子どもは生まれませんでした。次期将軍を誰にするのかという問題を抱えた幕府に、次第に不穏な空気が流れることとなります。

将軍継承問題に関与、大奥の責任者となる

家定に跡継ぎがいなかったことから、将軍継嗣が重大な政治問題になります。次期将軍候補として、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の子で、一橋家の養子・一橋慶喜(よしのぶ、後の徳川慶喜)と、紀伊藩主・徳川慶福(よしとみ、後の徳川家茂)の2名が注目されました。

慶喜を支持する一橋派と、慶福を支持する南紀派は、次期将軍の座を巡って激しく争い、天璋院もこの継承問題に巻き込まれることとなります。天璋院の養父・斉彬は一橋派で、水戸嫌いの大奥の意向を変えるよう、彼女に求めたのです。

しかし、大奥の水戸嫌いは簡単に変えられるものではなく、天璋院は周囲から猛反発されてしまいます。結局、家定から大老に任命された彦根藩主・井伊直弼(なおすけ)が、慶福を継嗣にしたことで、両者の争いは決着しました。

慶福が次期将軍に決定した直後、家定はこの世を去ってしまいます。家定との結婚生活は2年足らずで終わりを迎え、彼女は落飾して天璋院と号したのです。その後、天璋院は大奥の責任者となり、取り締まりにあたります。また、14代将軍・家茂の後見役として、宮中から皇女・和宮を正室に迎え入れました。

和宮(『幕末・明治・大正回顧八十年史』より)

和宮とともに、徳川家存続に尽力する。次ページに続きます

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