『枕草子』を執筆し、話題になる
定子の女房として仕え、楽しく生活していたとされる清少納言。しかし、そのような生活も終わりを迎えることとなります。定子の父である道隆が、病没してしまったのです。道隆の後継者には、弟の道兼(みちかね)が任命されましたが、彼も間もなく病に倒れてしまいます。
そして、道隆の息子・伊周(これちか)と、兼家の五男の道長は激しい権力争いを展開。最終的に道長が勝利したことで、政権は道長に移り、道隆の家系である中関白家は衰退していったのです。さらに、清少納言は道長と内通しているという嫌疑をかけられてしまいます。
これにショックを受けた清少納言は、父・元輔が住んでいた京都の郊外に籠居することとなりました。その間に記されたのが、随筆集として現在も高く評価されている『枕草子』です。この作品には、定子の女房として、宮廷で楽しく暮らした日々のことなどが記されています。
清少納言の独特な感性と、高い表現力が反響を呼び、彼女は当時を代表する女流作家として、その名を残したのです。素晴らしい才能を開花させた、清少納言。再び定子のもとに戻り、女房として仕えることとなりました。長保2年(1000)に、定子が亡くなるまで、清少納言は彼女に付き従ったとされます。
定子が亡くなった後、清少納言がどこでどうしていたのかについては、詳しく分かっていません。一説では、各地を転々とした後、京都の郊外で隠棲するようになったと言われています。
紫式部との関係性
清少納言と言えば、同時期に活躍した歌人・紫式部と比較されることが多いです。『源氏物語』の作者として知られている、紫式部。定子と同じく、一条天皇の中宮となった道長の娘・彰子(しょうし)の女房として仕えました。
清少納言の『枕草子』が話題になったことを受け、紫式部は自身の日記である『紫式部日記』の中で、彼女について触れています。そこには、「賢ぶって、学才をひけらかしているだけ」「他人と異なることを好む自分に酔っているのではないか」といった内容が記されており、清少納言のことをあまり良く思っていなかったことが分かります。
一方で、紫式部の作品は、清少納言の影響を受けていると言われることもあります。良い印象は抱いていないものの、作家としての彼女の才能を認めている部分はあったのかもしれません。
まとめ
高い教養を持ち、自身の経験や豊かな感性をもとに、『枕草子』という素晴らしい作品を生み出した清少納言。明るい性格で、周囲から慕われていたという逸話も残されています。才能があったことはもちろんですが、それを認めてくれる人や環境に恵まれていたからこそ、より魅力的な作家に成長できたのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)