はじめに-赤染衛門とはどのような人物だったのか
赤染衛門(あかぞめえもん)は、平安時代中期を代表する女流歌人して、中古三十六歌仙(三十六歌仙のあとに選抜された、36人の優れた歌人)にも数えられています。また、実生活では良妻賢母として有名です。実際はどのような人物だったのか、史実をベースに紐解いてみましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、道長の妻・倫子(りんし/ともこ)に仕え、一条天皇の中宮となる娘の彰子(しょうし)など姫たちに学問を指南するうち、文学好きのまひろ(紫式部)と交流することになる人物(演:凰稀かなめ)として描かれます。
目次
はじめに—赤染衛門とはどのような人物だったのか
赤染衛門が生きた時代
赤染衛門の生涯と主な出来事
まとめ
赤染衛門が生きた時代
清少納言、紫式部、和泉式部など、そうそうたるメンバーが並び立った、宮中女流文学の華やかかりし時代を代表する人物のひとりが、赤染衛門です。藤原道長(ふじわらのみちなが)が兼家(かねいえ)の五男という立場から関白へと出世、さらにその子の頼道(よりみち)へと、道長・頼道の栄華をごく間近で見届けた女性でもあります。
赤染衛門の生涯と主な出来事
赤染衛門は生没年不詳。長久2年(1041)以後、80歳を超えて没したとされています。その生涯を主な出来事ともに辿りましょう。
紫式部も一目置く存在
赤染衛門は、赤染時用(あかぞめときもち)の娘ですが、母が初め平兼盛(たいらのかねもり)の妻だったことから、兼盛の娘ともいわれ、定かではありません。本名も不詳。赤染衛門の名は、父が大内裏の諸門を警備する右衛門府(うえもんふ)の志(さかん)や尉(じよう)の位であったことにちなむものです。
赤染衛門の前半生の確かな記録はありませんが、文章博士・大江匡衡(おおえのまさひら)と結婚したのが貞元年間(976~978)とされ、挙周 (たかちか) 、やはり女流歌人として活躍した江侍従 (ごうのじじゅう) らをもうけました。
赤染衛門は、宇多天皇の孫・源雅信(みなもとのまさのぶ)邸に出仕しており、さらに、雅信の娘で道長の正妻・倫子と娘の彰子に仕えます。彰子らに文学などを教え、紫式部、和泉式部、清少納言らとも親交がありました。
例えば、紫式部は『紫式部日記』の中で、赤染衛門と夫・匡衡があまりに仲がいいので、彰子や道長が、「匡衡衛門(まさひらえいもん)」と呼んだと記しています。さらに式部は赤染衛門の歌についても、「世に知られている歌はみな、ちょっとした折々のことも、こちらが恥じ入るほどの詠みぶり」と称しています。微笑ましいばかりの夫婦仲のよさや本格派の歌人として、紫式部も一目置く女性が赤染衛門でした。
【和歌に託した良妻賢母パワー。次ページに続きます】