はじめに-織田信忠とはどんな人物だったのか
織田信忠(おだ・のぶただ)は、織田信長の長男としてさまざまな活躍を見せ、最後は「本能寺の変」で自害した信長に続いて、やはり自害した人物として有名です。
そんな信忠ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
目次
はじめに-織田信忠とはどんな人物だったのか
織田信忠が生きた時代
織田信忠の足跡と主な出来事
まとめ
織田信忠が生きた時代
戦国時代は実力が非常に重視された時代であり、それは身内であっても同じことでした。織田信忠は長男であるからという理由だけで、織田家の後継者になれるとは限りませんでしたが、本人は家督を継ぐ者としてふさわしい能力を備えていたようです。
織田信忠の足跡と主な出来事
織田信忠は弘治3年(1557)に生まれ、天正10年(1582)に亡くなりました。その生涯を出来事とともに見ていきましょう。
誕生から初陣まで
信忠は弘治3年(1557)に、信長の長男として尾張清洲城に生まれました。母は生駒氏です。幼名は奇妙丸、長じて菅九郎と称しました。元亀3年(1572)、岐阜城で元服しています。
元服した年に初陣し、父・信長に従って、北近江の浅井長政(あざい・ながまさ)との戦闘に参加。近江の小谷城を攻めています。
信長の後継者としての資質を見せる
戦闘に参加するようになった信忠は、信長の後継者にふさわしい活躍を見せていきます。
天正2年(1574)には伊勢長島の一向一揆の討伐で、東の市江口の大将を勤めました。翌年の天正3年(1575)の長篠の戦いの勝利後、美濃の岩村城を攻め、そこを守っていた武田方の秋山信友(あきやま・のぶとも)を捕虜に。この功績で、秋田城介(あきたじょうのすけ)に任じられました。
この秋田城介とは、平安時代以来の職制の一つで、出羽地方を支配するために置かれた秋田城の責任者のことです。戦国時代まで、名誉の称号として、武士の間で重んじられていました。
天正4年(1576)、信長が築城した安土城に移ると、信忠は岐阜城主になって、美濃・尾張の支配を担当。この地域は信長が天下人としての人生の出発点となった土地ですから、信長から深く信頼されていたのがうかがえます。
天正5年(1577)には紀伊の雑賀攻めに従事。また、室町幕府の実力者であり、信長に背いて大和信貴山に籠城した松永久秀(まつなが・ひさひで)を討伐しています。久秀討伐の際には、総大将を務めることになりました。この時の討伐により、従三位左近衛権中将(じゅさんみさこんえごんのちゅうじょう)に叙任。
天正6年(1578)の豊臣秀吉による播磨の三木城攻略でも、佐久間信盛・滝川一益・丹羽信秀らを率いて神吉・志方の両城を攻略し、かなりの側面支援を行ないました。
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