天正10年(1582)には、武田勝頼の討伐に向かいます。この時、先鋒の大将として甲斐に侵攻。追い詰められた勝頼は一族とともに山梨郡田野(東山梨郡大和村)で自害し、武田氏は滅亡しました。

また、武田の残党をかくまったという恵林寺(えりんじ)を攻めて、そこの僧侶など150余人を焼き殺したとも言われています。寺が焼け落ちる際、僧であった快川紹喜(かいせん・じょうき)の「安禅必ずしも山水を須ひず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」と唱えた言葉は有名です。

恵林寺の境内。武田氏とゆかりがあります。

「本能寺の変」で信長に続いて、亡くなる

甲州攻めで武田氏が滅んだのと同じ年、中国攻めに赴いていた豊臣秀吉を支援するために信忠は入洛。そして、本能寺に近い妙覚寺に滞在していた際に、本能寺の変が勃発しました。

父・信長のいる本能寺が明智光秀に包囲されたことを知り、救援に向かうも本能寺が焼け落ちたという連絡を受けるや、二条御所に入り、誠仁親王及び皇孫を禁中に逃し、光秀の軍を防ぎました。しかし、数に圧倒された信忠はそこで自刃します。享年26歳。6月2日のことでした。

その後、織田家は信忠の子・三法師(さんぼうし、後の秀信)が継いでいます。

まとめ

信忠は父・信長と同様に、武将として優れた才能を発揮しました。それゆえに、もし信忠が生きていれば、信長没後も織田家が実権を握りつつけ、秀吉の台頭はなかったかもしれない可能性も一部で指摘されています。もし、信忠が生きていればどのような歴史になっていたのかを、想像してみるのも面白いですね。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)

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