井伊直政
井伊直政像
写真:photoAC

はじめに-井伊直政とはどんな人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する井伊直政(いい・なおまさ、演:阿久津仁愛)は徳川家康(演:松下洸平)に仕えた重臣で、「徳川四天王」の一人に数えられる武将です。

父を幼くして失い、一時は本領を追われる境遇にありながら、天正3年(1575)、15歳で家康に仕えると急速に頭角を現しました。

武田氏の旧臣を中心に編成された軍団を率い、武具を赤一色で統一した「赤備(あかぞなえ)」で知られ、自身も「赤鬼」と呼ばれ恐れられたといいます。

しかし、直政の才能は戦場だけにとどまりません。諸大名との交渉や新領地の統治にも力を発揮し、若くして家康家臣団の中心人物となりました。

流浪の少年から、家康の側近第一人者へ…。井伊直政の生涯をたどります。

『豊臣兄弟!』では、「井伊の赤備え」を率いる徳川四天王の一人として描かれます。

井伊直政が生きた時代

井伊直政が生きた16世紀後半は、戦国大名同士の争いから、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康による全国統一へと向かった時代です。

直政が家康に仕えたころ、徳川氏はまだ武田氏や北条氏と争いながら勢力を拡大している最中でした。やがて信長が本能寺の変で倒れると、秀吉が天下の主導権を握り、家康も豊臣政権の有力大名として位置づけられていきます。

さらに秀吉の死後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを経て、家康が天下の実権を握りました。直政が生きたのは、戦国の争乱から徳川政権の成立へと、政治の中心が大きく移り変わる時代だったのです。

井伊直政の足跡と主な出来事

井伊直政は、永禄4年(1561)に生まれ、慶長7年(1602)に没しました。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

名門井伊氏に生まれる

井伊直政は永禄4年(1561)2月19日、遠江国(現在の静岡県西部)引佐郡祝田村に生まれました。幼名は万千代。父は井伊直親(いい・なおちか)、母は奥山親朝の娘です。

井伊氏は遠江西部の名族でしたが、直政がまだ幼い永禄5年(1562)、父・直親は織田・徳川氏と通じているとの疑いを受け、今川氏真(いまがわ・うじざね)によって殺害されました。

その結果、井伊氏は本領の井伊谷(いいのや)を失います。直政自身も幼い身で流浪することになりました。

15歳で徳川家康に仕える

転機が訪れたのは天正3年(1575)です。15歳になった直政は浜松で徳川家康に仕えました。

浜松城公園にある若き日の徳川家康公像
浜松城公園にある若き日の徳川家康公像
写真:貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、家康から井伊谷の地を与えられ、以後、家臣として取り立てられていきます。このころ家康の周囲には、酒井忠次(さかい・ただつぐ)、本多忠勝(ほんだ・ただかつ)、榊原康政(さかきばら・やすまさ)など歴戦の武将たちがいました。

直政は彼らよりかなり若い世代でしたが、その中で急速に存在感を高めていきます。

武田氏との戦いで頭角を現す

家康に仕えた直政は、武田氏との戦いで功績を重ねました。そして天正10年(1582)、織田信長・徳川家康らの攻撃によって武田氏が滅亡します。

同年6月、本能寺の変で信長が討たれた際、家康は畿内に滞在していました。家康はわずかな供回りとともに伊賀を越えて三河へ戻ることになります。いわゆる「伊賀越え」です。

直政も家康に同行し、この危難をともに切り抜けました。

武田旧臣を集め、「赤備」を率いる

本能寺の変後、家康は甲斐へ進出します。天正10年(1582)7月ごろから、直政は武田氏旧臣を徳川方へ取り込むための招撫に尽力しました。さらに同年10月には、徳川氏と北条氏の講和にも関わっています。

家康はその働きを評価し、武田氏の旧臣を数多く直政の配下につけました。こうして編成された直政の軍団は、武具を赤色で統一したことで知られます。これが有名な「井伊の赤備」です。

武田氏の精鋭部隊の伝統を受け継ぐようなこの軍団は、以後、徳川軍の精鋭として第一線で戦うことになります。直政自身も、その勇猛さから「赤鬼」と呼ばれました。

22歳で旗本軍の指揮官に

天正10年(1582)、直政は22歳の若さで旗本一手役の長となりました。同じ役割を担ったのが、本多忠勝と榊原康政です。後世、この三人は徳川家臣団の「三傑」とも称されました。

直政は家康に仕えてまだ数年でしたが、早くも家康直属軍を率いる立場に抜擢されたのです。その昇進の速さからも、家康からの期待の大きさがうかがえます。

小牧・長久手で秀吉軍と戦う

天正12年(1584)、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄(おだ・のぶかつ)が対立し、小牧・長久手の戦いが起こります。直政の赤備軍団も、この戦いで第一線に立ちました。

長久手古戦場
長久手古戦場
写真:photoAC

当時の秀吉は、信長亡き後の天下の主導権をほぼ掌握しつつありました。直政にとっては、のちに天下人となる秀吉と、戦場で直接対峙したことになります。

その後、秀吉と家康は和解へ向かい、家康は豊臣政権のもとに入ることになりました。

秀吉の母・大政所を大坂まで送る

天正14年(1586)、秀吉は家康に上洛を促していました。しかし家康は、秀吉への臣従に慎重な姿勢を見せていました。そこで秀吉は、自らの母・大政所を岡崎へ送りました。家康に対する事実上の人質とも受け取れる措置でした。

『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、直政は本多重次とともに大政所を大坂まで送り届け、その際、秀吉に謁見しています。かつて小牧・長久手で敵として戦った秀吉と、直政が直接顔を合わせた重要な場面です。

徳川と豊臣の関係が、対立から臣従へと大きく転換したことを象徴する出来事でもありました。

聚楽第行幸では侍従に

天正16年(1588)、後陽成天皇が秀吉の聚楽第へ行幸しました。このとき直政も家康に供奉しています。そして従五位下・侍従に叙任されました。

直政は武将としてだけでなく、豊臣政権下で朝廷の官位を得た有力大名へと成長していったのです。

小田原征伐後、12万石の大名へ

天正18年(1590)、秀吉は関東の北条氏を攻める小田原征伐を行いました。直政も家康に従って転戦し、数々の功績を挙げました。

小田原城
現在の小田原城
写真:photoAC

北条氏滅亡後、家康は関東へ移封されます。直政は上野国(現在の群馬県)箕輪で12万石を与えられました。これは当時の家康家臣団の中で最高の石高でした。

15歳で家康に仕えてから、わずか15年ほどで家臣団筆頭格の大名へ上りつめたことになります。

奥州一揆鎮定、朝鮮出兵では江戸を守る

天正19年(1591)、直政は陸奥で起きた一揆の鎮定に際し、蒲生氏郷(がもう・うじさと)へ加勢しました。

蒲生氏郷
蒲生氏郷公像
写真:貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

さらに文禄元年(1592)、秀吉による朝鮮出兵が始まると、直政自身は海を渡らず、江戸の留守居役を務めます。このとき、城の普請も担当しました。戦場で武功を重ねる一方、徳川領の中枢を守る役割も任されていたのです。

「高崎」の名をつける

慶長3年(1598)、直政は箕輪から和田へ居城を移しました。そして、この地を「高崎」と名付けたとされています。現在の群馬県高崎市につながる名称です。

直政は武将として戦うだけではなく、新たな領国の統治や都市整備にも関わっていました。

関ヶ原では東海道諸軍の監軍に

慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成らが対立し、関ヶ原の戦いが起こりました。直政は本多忠勝とともに、東海道方面の諸軍を監督する「監軍」を務めます。

単に自らの部隊を率いるのではなく、多くの大名軍を指揮・監督する立場です。直政が家康から軍事的にも政治的にも極めて高く評価されていたことがわかります。

松平忠吉・井伊直政陣跡
関ヶ原古戦場 松平忠吉・井伊直政陣跡
写真:photoAC

島津軍を追撃し、銃弾を受ける

関ヶ原本戦の終盤、西軍の島津義弘(しまづ・よしひろ)は敵中を突破して退却しました。直政はその島津軍を追撃します。

『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、この追撃戦で島津豊久(しまづ・とよひさ)を討ち取ったとしています。しかし直政自身も、この戦いで鉄砲により負傷しました。

関ヶ原で勝利した徳川方の中心にいながら、その代償として深い傷を負ったのです。

戦後処理でも手腕を発揮

関ヶ原の戦いが終わっても、直政の仕事は終わりませんでした。石田三成の本拠だった佐和山城の攻略に関わり、さらに毛利輝元(もうり・てるもと)の降伏斡旋にも尽力しました。

佐和山城址
佐和山城址
写真:貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

また、長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)から土佐(現在の高知県)一国を受け取る役目にも関わっています。

直政は、軍事だけでなく大名間の交渉でも大きな役割を果たしていたのです。その功績により、近江国(現在の滋賀県)佐和山18万石を与えられました。翌慶長6年(1601)には、従四位下へ昇進しています。

42歳で死去

しかし、直政の人生は長くは続きませんでした。慶長7年(1602)2月1日、直政は彦根で亡くなりました。42歳という若さでした。『国史大辞典』(吉川弘文館)では、関ヶ原の戦いで負った傷が再発したためとされています。

墓は彦根の清凉寺にあります。法号は清凉泰安祥寿院。

幼少期に父を失い、流浪した少年は、家康に見いだされてからおよそ27年で、18万石を領する大名へと上りつめました。

まとめ

「赤鬼」と呼ばれる猛将でありながら、外交や政務にも秀でた井伊直政。上野・近江では、民政にも優れた治績を示しました。

若くして家康家臣団の第一人者となったその生涯は、武勇だけでは語れない、徳川政権成立を支えた総合力の高い武将の姿を伝えています。

直政の死後、嫡子・直継(なおつぐ、のちの直勝)が跡を継ぎ、彦根城の築城に着手しました。その後は弟の直孝(なおたか)が井伊家の家督を継ぎ、彦根藩は30万石を領する有力な譜代大名へと成長します。井伊家からは、その後も幕府の大老を務める人物がたびたび出ました。

現在の彦根城
現在の彦根城
写真:photoAC

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

Instagram:@kyoto_monokaki ・ @bushoo_hakamairi
note:@kyoto_monokaki

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本人名大辞典』(講談社)

アイキャッチ画像/photoAC(一部加工)

 

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