はじめに-明智光秀とはどんな人物だったのか
明智光秀(あけち・みつひで)は、本能寺の変で主君・織田信長に反旗を翻したことで有名です。この事件にまつわる「敵は本能寺にあり」という言葉は今や慣用句にもなっています。
そんな光秀ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、配下に入った信長には媚びる一方、家康や秀吉の動向も注視する、本心のわからない人物(演:酒向芳)として、描かれます。
目次
はじめに-明智光秀とはどんな人物だったのか
明智光秀が生きた時代
明智光秀の足跡と主な出来事
まとめ
明智光秀が生きた時代
光秀が生きた時代は、武力が物を言う時代でした。教養が深く、相手への思いやりが深かった光秀にとっては、生きづらかったのかもしれません。乱世でなければ、主君に対して謀反を起こすようなこともなく、自らの職務を全うできたのではないかと推測できます。
明智光秀の足跡と主な出来事
光秀の生年については、はっきりとしていません。諸説ありますが、享禄元年(1528)に生まれたとする可能性が高いと言われています。没年は天正10年(1582)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
誕生から入洛まで
光秀は、明智城(岐阜県可児市)に生まれます。光秀の一門は美濃の守護を務めた土岐(とき)氏であり、明智氏以外にも、池田氏や浅野氏など多くの庶流がありました。
やがて、光秀は越前の朝倉義景(あさくら・よしかげ)に仕えることに。美濃から越前に移った理由として、美濃の実権を握っていた斎藤氏の内紛に巻き込まれ、敗者方であった光秀は美濃を追われ、越前に逃れたという説があります。
義景に仕えるようになった光秀は、一乗谷(いちじょうだに)の近辺に数年間住むことに。越前に加賀の一向一揆が押し寄せた時は、光秀は朝倉軍に与し、勝利に貢献したとも言われています。
義景に仕えていた光秀ですが、永禄10年(1567)に足利義昭(あしかが・よしあき)が義景に上洛の協力を求めて一乗谷を訪れたのを契機に、事態が動き始めます。義昭は側近の細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)を介して、尾張の信長と上洛に向けた交渉を進めていました。光秀もこの交渉に関与することになり、藤孝の下で信長との交渉を担います。
永禄11年(1568)、義昭は信長を頼って一乗谷から美濃に移り、光秀もそれに従いました。この時から、光秀は義昭の家臣でありながら、信長の家臣としての性格も帯びていったようです。そして同年には、義昭は無事に入洛し、室町幕府の15代将軍に就任。光秀もこの時、義昭・信長らとともに入京することになるのです。
【信長にも仕えるようになった光秀。次ページに続きます】