はじめに-明智光秀とはどんな人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場の明智光秀(演:要潤)、この名を聞くと、多くの人が「本能寺の変」を思い浮かべることでしょう。けれど光秀は、ただ「謀反を起こした武将」ではありません。

将軍・足利義昭(演:尾上右近)と織田信長(演:小栗旬)の間を取り持つ「申次」として動き、京都の政治や交渉にも関わり、そして丹波攻略という骨の折れる仕事を、粘り強くやり遂げた人物です。

そうして積み上げた功績の果てに、天正10年(1582)6月2日、歴史の歯車は一気に反転します。なぜ光秀は勝負に出たのでしょうか? 光秀の生涯を、史実に即して辿っていきます。

『豊臣兄弟!』では、足利義昭を擁して織田信長に上洛を進言する人物として描かれます。

明智光秀
明智光秀

明智光秀が生きた時代

光秀が生きた戦国末期は、室町幕府の権威が揺らぎ、畿内(京都周辺)では有力者がめまぐるしく入れ替わる時代でした。将軍が政治の主導権を握るという従来の構図は崩れ、三好氏や松永久秀らが台頭し、京都はたびたび戦乱の舞台になります。

そこへ織田信長が上洛し、足利義昭を奉じて新たな政治秩序をつくろうとします。しかしやがて信長と義昭は決裂し、天正元年(1573)に室町幕府は事実上終焉へ…。

以後は信長が畿内の支配を進め、各方面の征服戦が加速していきました。

この激動の「中心」にいたのが、京都の政務や交渉にも携わった明智光秀でした。

明智光秀の足跡と主な出来事

光秀の生年については、はっきりとしていません。諸説ありますが、享禄元年(1528)に生まれたとする可能性が高いといわれています。没年は天正10年(1582)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

誕生から入洛まで

光秀は、明智城(岐阜県可児市)に生まれます。光秀の一門は美濃の守護を務めた土岐(とき)氏であり、明智氏以外にも、池田氏や浅野氏など多くの庶流がありました。

やがて、光秀は越前(現在の福井県東部)の朝倉義景(あさくら・よしかげ)に仕えることに。美濃から越前に移った理由として、美濃の実権を握っていた斎藤氏の内紛に巻き込まれ、敗者方であった光秀は美濃を追われ、越前に逃れたという説があります。

義景に仕えるようになった光秀は、一乗谷(いちじょうだに)の近辺に数年間住むことに。越前に加賀の一向一揆が押し寄せた時は、光秀は朝倉軍に与し、勝利に貢献したともいわれています。

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

「交渉役」として頭角をあらわす

義景に仕えていた光秀ですが、永禄10年(1567)に足利義昭(あしかが・よしあき)が義景に上洛の協力を求めて一乗谷を訪れたことが、光秀の大きな転機になります。

義昭は側近の細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)を介して、尾張の信長と上洛に向けた交渉を進めていました。光秀もこの交渉に関与することになり、藤孝の下で信長との交渉を担います。

永禄11年(1568)、義昭は信長を頼って一乗谷から美濃に移り、光秀もそれに従いました。この時から、光秀は義昭の家臣でありながら、信長の家臣としての性格も帯びていったようです。そして同年には、義昭は無事に入洛し、室町幕府の15代将軍に就任。

光秀もこの時、義昭・信長らとともに入京することになるのです。

織田信長の家臣としての経歴

信長にも仕えるようになった光秀は、さまざまな活躍を見せます。

元亀元年(1570)、信長は上洛命令を拒否した朝倉氏へ攻撃を開始します。この時、信長の妹・市が嫁いで同盟を結んでいたはずの浅井長政(あざい・ながまさ)が謀反を起こしました。前は朝倉軍、後ろは浅井軍に挟撃され、信長は撤退を余儀なくされます。 

撤退時、光秀は木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)とともに敦賀の金ヶ崎(かねがさき)において殿(しんがり)を務め、敵の追撃を防ぎました。

金碕古戦場
「金碕古戦場」の碑が立つ。

元亀2年(1571)には、光秀は比叡山焼き討ちにも関わります。比叡山は浅井・朝倉軍をかくまったことで、信長から敵視されることになりました。光秀から比叡山焼き討ち準備完了の報告を受けた信長は、石山本願寺へ向かうと見せかけて比叡山を包囲、全軍に焼き討ちを命じます。

その後、光秀は比叡山攻略の功労として比叡山延暦寺の遺領を信長から与えられ、織田家臣の中で初めて居城の築城までも許されました。これに伴い、光秀は坂本城(現在の滋賀県大津市)の城主となり、京都近辺の要衝を押さえる立場になります。

以後、各地の戦に参加しながらも、京都の民政・統治にも力を注いだそうです。

坂本城跡にたつ明智光秀像

丹波攻略

天正3年(1575)、光秀は信長の命を受けて、丹波攻略に着手。国人勢力が錯綜し、味方したはずの勢力が反転する難しい戦場でした。

特に天正4年(1576)以降、八上城の波多野秀治が叛くなど抵抗が強まり、光秀は簡単に勝ち切れません。それでも攻勢を続け、天正7年(1579)には強く抵抗した八上城を陥し、丹波平定への道をつけます。さらに細川藤孝を助けて丹後方面にも関与し、近畿の東西を押さえる役割を担いました。

八上城は、「丹波富士」と呼ばれる高城山(標高462m)に築かれていた。
明智光秀の兵糧攻めによって八上城は落城し、波多野氏は滅亡。

天正10年(1582)5月ごろには、西江州・丹波を直轄領とし、細川藤孝、筒井順慶(つつい・じゅんけい)らが与力として付属されるなど、光秀は近畿を統率する地位に上りました。

武将として、政治家として、ここが光秀の一つの「到達点」だったともいえます。

歴史が反転した「本能寺の変」

天正10年(1582)春、光秀は信長の武田勝頼攻めに従って出陣します。甲州攻撃から戻ると、5月14日には安土を訪れた徳川家康の接待役を命じられました。

ところが5月17日、備中高松城を包囲していた羽柴秀吉から「毛利輝元の大軍が来攻したため救援が必要」とする急報が安土に届きます。信長は自ら中国へ向かう決意を固め、光秀にも急遽出陣を命じました。

光秀は5月26日に本拠・坂本城を発ち、丹波亀山城へ入ります。翌27日には愛宕山を参詣し、28日には愛宕山の威徳院で連歌師・里村紹巴(さとむら・じょうは)らと百韻を興行(愛宕百韻)。「時は今 あめが下しる 五月哉」は百韻の発句で、「雨が下」と「天が下」をかけて謀叛の決意を示したといわれています。

中央の一番高い山が愛宕山
中央の一番高い山が愛宕山。
写真下部に流れている川は保津川で、鉄橋は山陰本線のもの。

そして6月1日の夜、光秀は「備中出陣」を全軍に布告し、一万三千の兵を率いて亀山を出発。ところが老ノ坂を越えたところで進路を一転、東へ。桂川を渡り、6月2日未明、洛中に入りました。

向かった先は、毛利戦線ではなく、信長が滞在する本能寺。光秀は警護の手薄を突いて急襲し、信長を自刃へと追い込みます。続いて二条御所では、信長の長男・信忠も自害に追い込みました。これが、世にいう「本能寺の変」です。

本能寺跡

あまりにも早い秀吉の東上で計画が狂う

本能寺の変当日(6月2日)、光秀は午後ただちに坂本城へ入りました。続いて6月5日には安土城を接収し、秀吉の本拠・長浜城を占領。さらに佐和山城も押さえ、近江・美濃の二国をいったん勢力下におさめます。

6月8日に坂本へ戻ったのち、9日には京へ入り、禁中や寺社へ金銀を献上。京の町民には地子免除を行い、人心の収攬(しゅうらん)に努めました。

しかし、ここで誤算が生じます。秀吉が想定以上の速さで東上するとの報が入ったのです。光秀は鳥羽へ出陣し、諸将の来属を促しました。ところが、細川藤孝・忠興父子や筒井順慶といった有力者に加え、組下である中川清秀・高山右近らの協力も得られず、兵力差は決定的になります。

6月12日、中川清秀が山崎の要地・天王山を占拠。翌13日午後の山崎の合戦で光秀は敗れ、勝竜寺(しょうりゅうじ)城へと退きました。再起を図ってその夜坂本へ向かいますが、途中の小栗栖(おぐるす)で土民に襲撃され深手を負います。その後、家老・溝尾庄兵衛尉の介錯を受けて自刃したと伝えられています。

勝竜寺城跡
山崎の合戦で退却した光秀が最後に籠った城。

「本能寺の変」を起こした動機は?

光秀が信長に叛いた動機については諸説あります。例えば、八上城の波多野攻めをめぐる対応を信長に咎められたことや、四国征伐の功を織田信孝・丹羽長秀に奪われたことなどから怨恨を抱き、徳川家康饗応役を急に解かれたことで怒りが爆発したなどという怨恨説は古くから語られてきました。

一方で、秀吉との対立、あるいは天下取りの野望、先行きに対する不安なども取り沙汰されますが、いずれも決定的な確証はありません。叛逆の真意は今でも「不詳」です。

西教寺
西教寺(さいきょうじ、滋賀県大津市)には、明智光秀の墓がある。

まとめ

明智光秀の生涯は、「武将」という一言だけでは測りきれない奥行きを持っています。将軍と信長の間を取り持ち、京都の政務を担い、丹波攻略のような骨太の仕事も粘り強くやり遂げた… その実務と才覚は、信長政権の中枢にいた証だといえるでしょう。

こうしたことを考えると、本能寺の変は「突発的な裏切り」ではなく、光秀が積み上げた立場と判断の末に起きた決断だったとも考えられます。

だからこそ、光秀が起こした「本能寺の変」は今も問いを残し続けているのでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)
『デジタル大辞泉』(小学館)
『新版 日本架空伝承人名事典』(平凡社)

 

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