はじめに-豊臣秀吉とはどんな人物だったのか
2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』で、主人公・豊臣秀長(演:仲野太賀)の「兄」として描かれる豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし、演:池松壮亮)は、織田信長(演:小栗旬)、徳川家康(演:松下洸平)とともに戦国三英傑の一人。
百姓の子から天下統一を果たし、関白・太政大臣にまで上り詰めました。「出自の低さ」を乗り越え、機敏な行動と才覚で時代を動かした人物です。
しかし、その輝かしい足跡の陰には、常に弟・秀長の存在がありました。豪胆で大胆な兄と、温厚で実直な弟。二人の連携なくして、戦国の終焉と豊臣政権の成立はなかったといっても過言ではありません。
戦国時代を豊臣兄弟はどのように走り抜けたのか…… 秀吉の生涯を、時代のうねりとともにたどります。
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、人心掌握に長けた人たらしとして描かれます。

豊臣秀吉が生きた時代
豊臣秀吉が活躍したのは、戦国時代から安土桃山時代にかけて。武士たちが各地で争い、長らく続いた「下剋上」(げこくじょう)の混乱が、ようやく一つの統一権力へと収束しようとしていた時代です。
織田信長がこの流れを加速させ、本能寺の変で急逝した後、その後継者として天下をまとめ上げたのが秀吉でした。
秀吉の時代のもう一つの大きな特徴は、「武力だけでは天下は治まらない」という現実でした。戦国大名の「武の支配」から、検地や刀狩などを通じた「制度の支配」へと、大きな変革が進んでいきます。
この激動の時代において、秀吉は軍事・政治・経済・宗教をまたいだ幅広い施策を実行し、日本史に残る大改革を次々と行っていきました。
豊臣秀吉の足跡と主な出来事
豊臣秀吉は、天文5年(1536)に生まれ、慶長3年(1598)に没しました。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
尾張の百姓から信長の小者に
秀吉は、尾張国の百姓で足軽だった父・木下弥右衛門(やえもん)と、のちに大政所(おおまんどころ)と呼ばれる母・なかの子として生まれました。秀吉のきょうだいには、姉・とも(のちの瑞竜院日秀)、弟・秀長、妹・旭姫がいます。

幼い頃は面相から小猿と呼ばれ、日吉丸と称していました。秀吉が7歳の頃に父が病死したことで、母は織田信秀の同朋衆・筑阿弥(ちくあみ)と再婚し、秀吉もしばらく同居します。同朋衆とは、主君の側近で、雑務や芸能を担当した人々のことです。
16歳のとき、父・弥右衛門が残したわずかな永楽銭を持って流浪したのち、松下之綱(まつしたゆきつな、頭陀寺城主)に仕えますが、同輩に嫉妬され出奔。
天文23年(1554)、18歳のときに、尾張清洲城の城主であった織田信長に小者として仕えるようになります。草履を懐で温めたという逸話に象徴される忠勤ぶりで、次第に頭角を現していきました。

織田政権下で頭角を現す
永禄4年(1561)、弓の衆・浅野長勝の養女、寧々(「おね」、「ねい」とも。のちの北政所、高台院)を妻にし、「木下藤吉郎秀吉」を名乗ります。
その後、墨俣の築城(現在の岐阜県大垣市)や美濃・浅井攻めで功を上げ、天正元年(1573)浅井氏の居城ならびに旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名に。
この頃から、「羽柴藤吉郎秀吉」を名乗るようになります。この「羽柴」という名前は、丹羽長秀(にわながひで)と柴田勝家(しばたかついえ)の名前を取ったものであるといわれています。
中国攻めから本能寺の変へ|秀長と共に軍政を支える
天正5年(1577)からは信長の命を受けて中国地方の平定へと向かい、播磨・但馬・因幡・備中と、秀吉軍は西へと進軍します。このとき、弟・秀長が常に側近くにあり、戦場での城代や調略役として支えたことが記録されています。
天正10年(1582)、備中高松城の水攻めの最中に本能寺の変が起こり、信長が横死。秀吉は即座に毛利氏と和睦し、怒涛の撤退戦を経て「山崎の戦い」で明智光秀を討ち、信長の後継者として頭角を現します。
本能寺の変後、わずか11日目のことでした。

清洲会議と賤ヶ岳の戦い|信長の後継者として
信長の死後、跡目を決める「清洲会議」では、信長の孫・三法師を後継に据え、自らが後見人として実権を掌握します。このとき、秀吉は織田家の重臣である、丹羽長秀と池田恒興(いけだつねおき)などを味方にしていました。
これに反発した宿老・柴田勝家を天正11年(1583)の「賤ヶ岳の戦い」で破り、織田家中での覇権を確立。

勝家が妻の市と共に自害すると、敵対勢力の制圧に成功した秀吉は、商品流通や水陸交通で栄えた大坂の地に大坂城を築城し、拠点とします。
また、市の三人娘を引き取り、長女の茶々を側室として迎えることに。茶々はのちの淀殿であり、秀吉との子・秀頼(1593年に誕生)を授かります。
さらに、天正12年(1584)には徳川家康と小牧・長久手で争うも、政治的交渉により信長の次男・信雄(のぶかつ)を懐柔し、家康とも和議を結びました。

関白・豊臣秀吉として天下統一へ
天正13年(1585)、ついに関白となった秀吉は豊臣姓をうけ、朝廷の権威を背景にして諸大名を従わせていきます。同年には四国を平定、翌年には九州の島津氏を降伏させ、天正15年(1587)には博多・長崎を直轄化。
天正18年(1590)の小田原征伐では後北条氏を滅ぼし、奥羽までを支配下に置いて、ついに全国統一を成し遂げます。
太閤検地と刀狩令|制度で国を治める
秀吉の天下統一は、単なる軍事的勝利では終わりませんでした。
「太閤検地」によって全国の田畑の面積と収穫量を正確に把握し、「刀狩令」で農民から武器を取り上げ、兵農分離を進めました。また、「身分統制令」によって、武士・百姓・町人などの身分移動を禁止し、近世的な身分制度の基礎を築きます。
これらの施策は、後の江戸時代に続く封建社会の原型となり、「天下統一の先にある統治」を実現しようとした秀吉の政治手腕を示すものでした。
朝鮮出兵と晩年|夢は大陸へ

秀吉は、朝鮮出兵にあたり、ここに本陣を築いた。
秀吉の野望は国内にとどまりませんでした。文禄元年(1592)、諸大名に命じて「文禄の役」と呼ばれる朝鮮出兵を開始。
しかし、明・朝鮮連合軍の反撃に遭って戦局は膠着し、再び慶長2年(1597)に「慶長の役」を起こすも成果を得られないまま、慶長3年(1598)8月18日、秀吉は伏見城にて病没します。波乱に満ちた62年の生涯でした。
幼少の秀頼の前途を案じ、五大老、五奉行に遺言を残したそうです。
辞世の和歌は「つゆとをち つゆときへにし わがみかな 難波(なにわ)の事も ゆめのまたゆめ」です。
晩年、実子・秀頼を後継とするため、甥・秀次を切腹させ、政権体制の混乱も招いていました。秀長が朝鮮出兵の前年、天正19年(1591)すでに病没していたことも、秀吉の政権が不安定化する大きな要因の一つだといわれています。
まとめ
豊臣秀吉は、尾張の百姓の子から天下人へと登りつめた、まさに「日本史上もっとも劇的な出世を遂げた人物」です。信長の草履取りから始まり、機知と実行力を武器に戦国の覇権を握り、朝廷の権威を借りて近世国家の原型を築いたその歩みは、圧巻の一言に尽きます。
しかし、その足元を、冷静に支え続けたのが弟・秀長の存在でした。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、戦国という荒波を兄弟二人がいかに手を取り合って乗り越えたのか……その人間ドラマにも注目です。
天下人・秀吉の壮大な軌跡とともに、「補佐役」以上の働きをした秀長の存在にも、改めて光が当てられることでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『新版 日本架空伝承人名事典』(平凡社)











