はじめに-森乱とはどんな人物だったのか?
森乱(もりらん 、演:市川團子)は、一般には「森蘭丸(もり・らんまる)」の名で広く知られる人物です。織田信長(演:小栗旬)の近習として仕え、若くして信長の側近くにあり、本能寺の変で主君と運命をともにしました。
後世には、美貌の若者、あるいは信長に寵愛された小姓として語られることも多い森乱ですが、史料を見ると、その実像はそれだけではありません。信長の命を諸将に取り次ぐ奏者として活動し、若年ながら所領も与えられ、将来を嘱望された近臣でした。
この記事では、森乱が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、剣術の腕で知られる若き近習として描かれます。

森乱が生きた時代
森乱が生きたのは、織田信長が天下統一へ向けて急速に勢力を拡大していた時代です。各地の戦国大名を次々と制圧し、室町幕府を滅ぼし、中央政権を握った信長のもとには、多くの家臣や近臣が集まりました。
この時代、主君の側に仕える近習や小姓は、単に身の回りの世話をするだけの存在ではありませんでした。主君の意向を諸将に伝え、下賜や命令の取り次ぎを行うなど、政治や軍事の現場にも深く関わることがありました。森乱は、まさにそうした近習の代表的な人物の一人だったのです。
しかし、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変によって、信長の天下は目前で崩れ去ります。森乱の生涯もまた、この事件によって18歳で閉じることになりました。
森乱の足跡と主な出来事
森乱は、永禄8年(1565)に生まれ、天正10年(1582)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
美濃の森家に生まれる
森乱は、永禄8年(1565)に生まれました。父は美濃国(現在の岐阜県南部)可児郡金山城主の森可成(もり・よしなり)、兄には森長可(もり・ながよし)、末弟には森忠政(もり・ただまさ、津山藩祖となった人物)がいます。

浅井、朝倉との戦いで戦死している。
実名については諸説ありますが、『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば『寛政重修諸家譜』などは長定としつつも、『金剛寺文書』に残る書状から成利であることがわかるとされています。
一般には「蘭丸」の名で知られていますが、これは通称として広まった呼び名であり、史料上の実名とは分けて考える必要があるでしょう。
幼少より信長に仕え、近習となる
森乱は、15歳で信長に仕え小姓となり、奏者や奉行を務めました。天正7年(1579)ごろから『信長記』に、信長が諸将へ下賜を行う際の取り次ぎ役として登場しており、奏者として実務を担っていたことがうかがえます。
つまり森乱は、若年ながら信長の意向を家臣たちに伝える重要な役目を担う存在だったといえるでしょう。

信長に寵愛された近臣として知られる
森乱は、信長の寵愛を受けたという印象が強いのではないでしょうか。『日本大百科全書』(小学館)にも、「才気あり言語動作がりっぱだったので信長に寵愛された」と記載されています。
後世には、「信長が切った爪が一指分足りないと捜した」という逸話が残るなど、森乱の忠勤を示す話が数多く伝えられました。こうした話は、乱が信長のそばでどれほど重んじられていたかを印象づけます。
若くして所領を与えられる
森乱は、近習として仕えただけでなく、若くして所領も与えられています。天正9年(1581)には近江(現在の滋賀県)のうち500石を与えられました。
さらに天正10年(1582)3月には、武田氏滅亡ののちに美濃岩村城5万石を与えられました。
この点は、大変重要です。森乱は信長とともに本能寺で散ったため、どうしても「若くして殉じた美少年」という印象に寄りがちですが、実際には城持に取り立てられるほど、信長から将来を期待されていた人物だったといえます。
本能寺の変で信長とともに戦う
森乱の生涯を語る上で、最大の出来事はやはり本能寺の変でしょう。天正10年(1582)6月2日、明智光秀が京都の本能寺を急襲した際、森乱は信長の側にありました。
『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、信長は騒ぎを聞いた当初、下々の者の喧嘩だと思ったそうです。しかし、鉄砲の音で光秀の襲撃を知り、みずから弓をとり槍を持ち、森乱ら近臣とともに防戦の末、火中で自刃したといわれています。
つまり森乱は、最期の瞬間まで信長の側を離れず、ともに戦った近臣でした。ここに、森乱の名が後世まで強く記憶される理由があります。

弟たちとともに18歳で散る
本能寺の変では、森乱だけでなく、弟の坊丸(17歳)、力丸(16歳)もともに戦死しました。
森乱の享年は18歳。あまりにも早い最期でした。もし本能寺の変がなければ、岩村城主として、あるいは信長の側近として、さらに大きな役割を担っていた可能性もあったでしょう。
後世の物語の中で大きく描かれる
森乱は、後世の文学や芸能の中で、実像以上に印象的な人物として描かれていきます。特に『絵本太功記』をはじめとする江戸時代の作品群では、明智光秀と信長の対立を劇的に描く中で、森乱も重要な役回りを与えられました。
ただし、こうした作品には脚色が多く含まれます。例えば、光秀の額を鉄扇で傷つける場面などは広く知られていますが、史実としてそのまま受け取ることはできないといえるでしょう。
まとめ
森乱の史料をたどると、その実像は、単なる小姓にとどまりません。信長の側で奏者として実務を担い、若くして所領を与えられ、将来を期待されていた有能な側近でした。
そして天正10年(1582)の本能寺の変では、弟たちとともに信長を守って戦い、18歳で命を落としました。その早すぎる死が、かえって森乱という人物の印象を強く残したともいえるでしょう。
後世の物語がつくり上げた「森乱像」は華やかですが、その根底にあるのは主君・信長の側で重要な役を果たした若き近臣の確かな姿です。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki
Facebook:@kyotomedialine
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











