さらに半蔵は、家康から江戸城麹町口 (こうじまちぐち) 門外に組屋敷 (くみやしき) を拝領します。この門は「半蔵門」と呼ばれ、今も見ることが可能。拝領した地域は甲州街道筋に向かって開いています。半蔵門がある地域は、江戸城より標高が高く、近世前期まで外堀もない防御が弱いエリアでした。半蔵はそんな地域の守りを固めるという、重要な役割を果たしていたとも言えます。
最期
半蔵は慶長元年(1596)、55歳で没しました。半蔵自身が岡崎信康(家康の嫡男。武田勝頼との内通をめぐって、切腹を命じられた)の菩提のために建立した、江戸麹町の安養院(今の西念寺)に葬られることに。西念寺には、家康から拝領したと伝えられる槍が保管されています。
情け深かった半蔵
半蔵は「鬼半蔵」とも呼ばれ、姉川や三方ヶ原の戦いでは一本槍として先陣を切るような猛々しい性格である一方、情け深いという一面もありました。半蔵は信康の切腹に際して、介錯を申し付けられましたが、「3代相互恩の主に刃は向けられない」と涙し、斬れなかったという逸話が残っています。それを聞いた家康は「さすがの鬼半蔵も主君の子は切れぬか」と言ったとか……。半蔵の、情が深い一面をうかがい知れるエピソードです。
まとめ
服部半蔵は、一般的には忍者としてのイメージが強いかもしれませんが、実際には槍の名手で武将としての側面が強い人物でした。しかしながら、忍者と深いかかわりがあったのは事実です。忍者は、それ自体が闇に包まれたミステリアスな存在。その忍者を統率していたということで、「槍の名手」「武将」という側面があってもなお、半蔵にも同じような興味・関心の目が向けられるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)