はじめに-築山殿(瀬名)とはどんな人物だったのか
築山殿(つきやまどの/瀬名)は、徳川家康の最初の正室でありながら、家康自身の命により暗殺された女性です。築山殿は、今川義元の姪であり、家康が今川家で人質時代に政略結婚をした相手。この結婚には、松平家を今川一門に加える狙いもあったと言われています。
しかし、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、人生は大きく変わります。家康との間には2人の子に恵まれましたが、永禄10年(1567)長男・信康の嫁には、義元の仇でもある信長の娘を迎え入れることになりました。普通に考えれば、その婚儀は、彼女が望んだものではなかったでしょう。この信長の娘が嫁いできたことが、彼女の死へと向かう大きな要因とされています……。
実際の築山殿はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、家康の初恋の女性(演:有村架純)として、明るく朗らかに描かれます。
目次
はじめにー築山殿(瀬名)とはどんな人物だったのか
築山殿(瀬名)が生きた時代
築山殿(瀬名)の足跡と主な出来事
まとめ
築山殿(瀬名)が生きた時代
築山殿(瀬名)が生まれた時代は、室町時代後期、男たちが覇権争いを繰り返す戦国の世。女性たちはそんな男性たちを支え、力強く生きていました。そんな中、築山殿(瀬名)は、今川氏の重臣の娘であり、今川義元の姪として生まれます。
箱入り娘として大切に育てられた築山殿(瀬名)はやがて、徳川家康と結婚をしたことで、大きく歴史に関わっていきます。
築山殿(瀬名)の足跡と主な出来事
築山殿(瀬名)は、天文11年(1542)に生まれ(諸説あり)、天正7年(1579)、数え年38歳の若さで没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
今川義元の姪として生まれる
瀬名は、関口氏純(うじずみ、父に関しては諸説あり)と駿河の今川義元の妹の娘として生まれます。つまり、今川義元の姪です。父である関口氏は、今川義元の重臣でした。
三河岡崎城主の家康の妻となる
弘治2年(1556)、瀬名姫は今川義元の養女として、今川氏の人質として駿河に滞在していた徳川家康の妻となります。2人の結婚は、政略結婚でした。
2人の間には、永禄2年(1559)に長男・竹千代(のちの信康)が、翌年には長女・亀姫が誕生します。
人質交換によって、岡崎城へ
永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」で養父である今川義元が織田信長に敗れ、討死します。その際、家康は岡崎城に戻りましたが、築山殿(瀬名)や子供たちは駿府に残されていました。
永禄5年(1562)、家康が、人質交換によって瀬名や子供たちを駿府から取り戻します。それから、岡崎城で元のように暮らし始めました。「築山」に居を構えたことから、築山殿と呼ばれるようになります。
元亀元年(1570)、「桶狭間の戦い」後、織田信長の配下となった家康は遠江(とおとうみ)の浜松城に居を移しますが、築山殿は信康を後見するため岡崎にとどまりました。
【嫡男・信康が織田信長の娘・徳姫と結婚。次ページに続きます】