はじめに-酒井忠次とはどんな人物だったのか
酒井忠次(ただつぐ)は、徳川譜代の筆頭として草創期を支えた武将です。家康を支えた「徳川四天王」の1人に数えられる名将で、家康からの信頼が厚い忠義の人として知られています。四天王の中でも最年長であり、最も早くから家康に仕えたことから、“筆頭格”や“リーダー”という印象をお持ちの方も多いかもしれません。
では、実際の酒井忠次はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、個性派家臣団のまとめ役を務める家康の叔父(演:大森南朋)として描かれます。
目次
はじめに-酒井忠次とはどんな人物だったのか
酒井忠次が生きた時代
酒井忠次の足跡と主な出来事
まとめ
酒井忠次が生きた時代
酒井忠次が生まれたのは、各国の武将らが争う戦国の時代でした。三河の地で領主・松平氏に仕える家系に生まれた忠次。それは、家康が生まれる15年前のことでした。家康がまだ幼い頃から仕えた忠次の生涯は、家康が天下統一を成し遂げる過程と重なります。
酒井忠次の足跡と主な出来事
酒井忠次は、大永7年(1527)に生まれ、慶長元年(1596)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
名門・酒井氏に生まれる
酒井忠次は、大永7年(1527)、三河国に生まれます。父は、松平氏の家臣を務めた酒井忠親(ただちか)です。徳川氏と同祖だとされる名門・左衛門尉(さえもんのじょう)酒井氏の嫡流に生まれました。
わずか10歳で家督を継いだ忠次は、16歳のときには家康の父・松平広忠(ひろただ)に仕え、その異母妹・碓井(うすい)姫を妻としました。家康の叔母を妻にすることで、徳川宗家との姻戚関係を持ったのです。
天文18年(1549)、竹千代(家康)が今川氏の人質として駿府に赴く際には、忠次も同行しました。その後、桶狭間の戦い後、家康が独立すると松平家の家老となります。
三河の一向一揆で力戦、吉田城攻めで武功を挙げる
永禄6年(1563)の9月から翌年3月にかけて家康の本拠・岡崎周辺では、三河の一向一揆が勃発します。忠次の叔父・酒井忠尚(ただなお)をはじめ酒井家の多くが一向宗側に加わったことで、松平家は危機に直面します。しかし、この間も忠次は家康に従い勝利しました。
永禄8年(1565)には、家康の命を受け、忠次は東三河の要衝・吉田城を無血開城させます。戦後は、吉田城(現在の愛知県豊橋市)を任されました。以後、忠次は東三河諸士の旗頭(はたがしら、地方の武士団の長のこと)となり、国衆や松平一族を管轄します。
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