はじめに-服部半蔵とはどんな人物だったのか
服部半蔵は徳川十六神将の一人として、また忍者集団の伊賀者の統率者として活躍しました。「鬼半蔵」とも呼ばれ、槍の名手であり、さまざまな戦場で一番槍としての功績をあげています。
さて、「服部半蔵」と聞くと、多くの人は忍者をイメージするのではないでしょうか。「服部半蔵」という名前の忍者をモチーフの映画・小説・漫画・ゲームが作られるなど、忍者としての服部半蔵のイメージが定着しています。
そんな半蔵ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、忍者と勘違いされるが自分では武士だと思っている、人付き合いが苦手な人物(演:山田孝之)として描かれます。
目次
はじめにー服部半蔵とはどんな人物だったのか
服部半蔵が生きた時代
服部半蔵の足跡と主な出来事
まとめ
服部半蔵が生きた時代
服部半蔵が生まれた時代は、戦国時代の真っただ中であり、日本各地で戦国大名による勢力争いは激化の一途をたどっていました。しかし、半蔵が生まれるころには家康の誕生や鉄砲伝来など、全国統一の主な要因が揃い始めていたのです。
服部半蔵の足跡と主な出来事
服部半蔵は、天文11年(1542)に生まれ、慶長元年(1596)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
生誕
半蔵は天文11年(1542)に、伊賀の服部保長(やすなが)の子として生まれました。半蔵の先祖は代々伊賀忍者の首領的存在であったと伝えられています。「服部半蔵」という名前は、服部家の代々の当主が使っており、世間でよく知られる「服部半蔵」は「正成(まさなり)」という名前を持っていました。この記事で紹介する「服部半蔵」とは、この正成のことです。
家康に仕える
半蔵の初陣は16歳の時、三河の宇土 (うど) 城の夜討ちでした。伊賀の忍者60〜70人ほどを率いて城内に潜入し、戦功をあげたのです。この後、家康からそれを評価され、長さ7寸8分の持槍 (もちやり) を拝賜することになります。半蔵は忍者というよりも槍の名手であり、武将でした。数々の戦場で一番槍として活躍し、同じく槍の名手である「槍半蔵」の渡辺守綱と並び称されるほどだったのです。
その後も、半蔵は姉川(あねがわ)・高天神(たかてんじん)・三方ヶ原(みかたがはら)などの戦いで活躍しました。特に天正10年(1582)の本能寺の変に際しては、家康の脱出劇に多大な貢献をしています。
「本能寺の変」で信長が討たれた時、家康は泉州堺にいました。この時、家康には敵陣を破り無事に帰国できる当てがない状態……。そんな時、半蔵は伊賀経由で忍者たちの救援を得て岡崎に帰るという策を家康に進言しました。
家康の同意を得ると、直ちに甲賀の有力者を訪ね、家康一行の保護誘導を依頼します。これによって、家康は無事に三河に帰還することができました。
帰城後、家康は警護役に当たった甲賀・伊賀の忍者300余名を、徳川家の隠密団とし、半蔵にその統率を命じました。半蔵は、遠州(静岡県)において8000石が与えられ、天正18年(1590)の家康の関東入国後、与力30騎、伊賀同心200人を支配することになったのです。
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