はじめに-徳川家康とはどんな人物だったのか
「なかぬなら 鳴くまで待とう 時鳥(ほととぎす)」という句から我慢の人・忍耐の人というイメージや「たぬき親父」「腹黒い」という印象のある徳川家康ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、1983年に放送された『徳川家康』以来、40年ぶりに主役(演:松本潤)として描かれます。
目次
はじめにー徳川家康とはどんな人物だったのか
徳川家康が生きた時代
徳川家康の足跡と主な出来事
まとめ
徳川家康が生きた時代
徳川家康が生まれた時代は、室町時代後期、群雄割拠ひしめく戦国の世。戦国時代の始期・終期にはさまざまな説がありますが、ほぼ1世紀にわたる激動期でした。そんな中、三河国の弱小大名の子として生まれた徳川家康は、幼少期から青年期を人質として過ごし、やがて戦国の世に終止符を打ちます。
徳川家康の足跡と主な出来事
徳川家康は、天文11年(1542)に生まれ、元和2年(1616)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
三河国岡崎城城主・松平広忠の長男として誕生
徳川家康は、三河国の小大名、岡崎城城主・松平広忠 (まつだいらひろただ)の長男として誕生しました。母は、水野氏於大の方 (おだいのかた) です。幼名は竹千代 (たけちよ) でした。その後、元信 (もとのぶ) 、元康 (もとやす) 、のち家康と変遷します。
ちなみに、家康の伝説の一つに、「三寅(みとら)の福」(寅の年・寅の日・寅の刻)を受けて誕生したことが挙げられます。しかしながら、「天文12年(1543)生まれの卯年だったのではないか」という説もあるため、正確な生年ははっきりとしていないところがあります。
家康の祖父・清康(きよやす)が岡崎城主だった頃は西三河4郡に勢力をふるいましたが、清康が暗殺された後、その勢いは衰えます。父・広忠の時代は、隣国・今川氏の庇護の下にいました。
その後、母・於大の方の兄の刈谷 (かりや) 城主水野信元 (のぶもと) が今川氏に背き、尾張の織田信秀 (のぶひで) に通じます。このことで松平家と水野家は仲違いし、両親は離縁。家康は3歳で母と離別することになりました……。しかしながら、於大の方と家康は連絡を絶やすことなく、強い母子愛で結ばれていたと言います。
人質として織田家、今川家を渡り歩く
6歳のとき、家康は松平家が帰属する今川氏に人質として送られます。しかし、今川氏がいる駿府に送られる途中、裏切りにあい、尾張国の織田信秀の元へ……。安祥 (あんじょう) 城で2年間を過ごしました。この人質時代に、一説には織田信長と知り合ったのではないかと言われています。
8歳のとき人質交換が行われ、今川氏の元へ。しかし、これ以前に父・広忠は暗殺され、家臣が城を守っているという状態でした。
19歳まで「三河の小せがれ」と呼ばれながら駿府で過ごします。その間のエピソードとして、9歳の時、安倍川で印地打 (いんじうち、石合戦のこと)を見物し、勝敗を予言した逸話は“将来の片鱗を見せた”と有名です。
14歳で元服し、今川義元の一字「元」を与えられ「松平次郎三郎元信」に。16歳になると今川氏の有力家臣・関口親永(ちかなが)の娘であり(※諸説あり)、今川義元の姪である築山殿 (つきやまどの、当時の名は瀬名)と結婚します。
翌年永禄元年(1558)に今川氏を裏切った鈴木重辰の討伐軍に参陣したのが、初陣です。このころに元康と改名しました。
「桶狭間の戦い」で今川方の先鋒として参陣
永禄3年(1560)、「桶狭間の戦い」で今川方の先鋒として参陣し、最前線の大高城に兵糧入れを実現します。しかし、今川義元が戦死したという情報が入り、敵中に孤立してしまう可能性が出てきたため、夜陰に紛れて大高城を脱出。今川兵が逃げ去り、空き城となった岡崎城に帰還します。その後も今川方として戦いましたが、今川氏からの援助はなかったため独立。岡崎城城主となり、翌年、西三河を平定します。
永禄5年(1562)には、織田信長と「清洲同盟」を結びます。このことは、今川氏との完全な対立を意味しました。
その後、人質となっていた築山殿と2人の子供を今川氏から取り戻し、永禄6年(1563)には今川義元の「元」の字を返上し「家康」と名乗るようになりました。ちなみに「康」は、勇名高い祖父の清康の一字から。「家」は源義家に由来すると言われていますが、こちらは定かではありません。
「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に大敗…
永禄6年(1563)に発生した三河一向一揆は深刻なものでしたが、翌年鎮圧。東三河も制圧し三河一国の大名となります。元亀元年(1570)には姉川の戦いに信長を助けて出陣し、浅井・浅倉軍を破ります。
この頃、信長・家康共に武田信玄との同盟を解消します。このことによって、家康は信長のために武田の西上を防ぐ役割を一手に担い、大きな犠牲を払わされることに……。
一つは、元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは2万5000の武田軍に対し、1万1000ほどの徳川軍は信玄の罠にもはまり、惨敗したこと。そしてもう一つは、天正7年(1579)に、信長の命により、妻・築山殿を処刑し、嫡男・信康を切腹させたことが挙げられます(諸説あり)。
特に三方ヶ原の戦いでは、家康を守るために多くの有力な家臣が戦死しました。この大敗以降、家康は「宝の中の宝というは人材に如(し)くはなし」という言葉を口癖のように言うようになったと言われています。
「本能寺の変」で信長討死により、決死の伊賀越え
天正10年(1582)、「本能寺の変」が起き、明智光秀が信長を討ったと伝えられます。わずかな供回りのみで堺にいた家康は、命の危険に晒され、治安が乱れた近畿地方を横断し、伊賀越え。海路岡崎城に帰りました。晩年、家康は「(伊賀越えは)大難であった」と振り返っています。
本能寺の変以降、家康は空白地帯となった甲斐・信濃に出陣。2か国を手中におさめ、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5か国を領有する大大名となりました。
秀吉と戦った、小牧・長久手の戦い
信長の遺子・信雄(のぶかつ)を助けて、羽柴秀吉と対抗。天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」では秀吉軍を破りましたが、大局的には秀吉の優位は動きませんでした。これが家康と秀吉との関係で、唯一の戦いでした。半年後には和議を結び、秀吉は妹の朝日姫を家康に嫁がせ、母の大政所(おおまんどころ)を人質として岡崎に行かせました。
以後の家康は、秀吉政権下の一大名として行動します。天正18年(1590)には、小田原征伐に先鋒として3万の軍を率いて出陣。北条氏滅亡後、関東で250万石を与えられ、8月1日(朔日)に江戸城に入りました。以後、「八朔」は、家康江戸打入(うちいり)の特別な記念日となります。
【「関ヶ原の戦い」で大勝利、天下人への道を決定づける。次ページに続きます】