はじめに-今川義元とはどんな人物だったのか

今川義元(よしもと)は、駿河国および遠江(とおとうみ)国を治めた戦国大名です。東海を統べる今川氏の最盛期を築いた人物ですが、「桶狭間の戦い」で織田信長に敗れた武将としての印象が強いかもしれません。

さらに義元は、武将であるにもかかわらず公家の装いをする「公家大名」とも言われます。「お歯黒で、白粉化粧を施していた」や「太り過ぎて馬に乗れず、輿に乗って移動した」といった逸話も……。2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』でも、油断していて御輿に乗って討たれてしまう姿が描かれました。このように、一般的に「軟弱者」という評価をされることが多い人物です。

では、実際の今川義元はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、家康が父のように心から尊敬する人物で、彼を乱世へと導いた男(演:野村萬斎)として描かれます。

目次
はじめに-今川義元とはどんな人物だったのか
今川義元が生きた時代
今川義元の足跡と主な出来事
まとめ

今川義元が生きた時代

今川義元が生まれた時代は、地方政権が群雄割拠し、互いに争った戦乱の時代です。そんな中、義元は室町時代の足利氏支流の大名・今川氏に生まれました。三男であったため一度は出家するも、家督争いに勝利し、戦国大名として戦乱に身を投じていきます。

今川義元の足跡と主な出来事

今川義元は、永正16年(1519)に生まれ、永禄3年(1560)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

今川家の三男として生まれる

今川義元は、駿河・遠江の領主・今川氏親(うじちか)の三男で、永正16年(1519)に生まれました。母親は中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘である寿桂尼(じゅけいに)です。幼名は芳菊丸(ほうぎくまる)。

初め義元は、出家して、駿河国富士郡今泉(=現在の静岡県富士市)の善徳寺(ぜんとくじ)の僧として修業を重ねていました。「梅岳承芳(ばいがくしょうほう)」と名乗り、一時は京都の建仁寺、妙心寺でも研鑽を積んだとされます。

家督を継ぎ、支配を広げる

しかし、天文5年(1536)4月に兄・氏輝(うじてる)が早世すると、異母兄の玄広恵探(げんこうえたん)と家督を争います。そして、同年6月に彼を倒して今川家を継ぎ、還俗(げんぞく、出家者が再び俗家にかえること)をして「義元」と名乗ったのでした。義元は、僧・太原崇孚(たいげんすうふ、別名「雪斎」)を登用し、駿河・遠江両国の経営に着手しました。

翌年2月、武田信虎(のぶとら)の娘と結婚し、武田氏と同盟を結びます。しかし、このことがきっかけで、元々同盟関係にあった北条氏綱(うじつな)が駿河東部に侵攻。こうして火蓋が切られた、富士川以東の支配をめぐる戦いは「河東一乱(かとういちらん)」と呼ばれます。そして、天文14年(1545)、戦いに勝利した今川氏が同地域の支配を回復したのでした。

今川義元・浮世絵(歌川国芳)

織田氏との戦いの末、人質・竹千代を奪還

そのころ、尾張国の織田信長の父・織田信秀(のぶひで)が勢力を拡大し、三河に進出し始めます。織田氏により三河・松平氏が圧迫されると、義元は松平氏を援助し三河へ出兵。異説もありますが、天文11年(1542)と同17年(1548)の二度、愛知県安城市・小豆坂(あずきざか)という地で織田氏と戦いました(「小豆坂の戦い」)。

この過程で義元は、東三河の吉田城(愛知県豊橋市)を制圧、松平氏の岡崎城(愛知県岡崎市)をも占領。天文18年(1549)には、織田氏の支城となっていた安祥(あんじょう/あんしょう)城を奪取します。その際、今川軍が安祥城主・織田信広(のぶひろ)を捕虜として和議が成立、先に織田方の人質となった松平竹千代(徳川家康)と人質交換を行いました。

松平広忠(ひろただ)の子として生まれた竹千代は、6歳で人質として今川氏のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて、尾張に送られていたのでした。当時の松平氏は、今川氏と織田氏との両勢力に挟まれた弱小の大名で、広忠は今川方に属していました。そんな中、今川氏の安祥城の攻略により、竹千代は8歳で駿府に移り、今度は今川氏の人質となります。

JR静岡駅北口にある竹千代君像と義元公像。
凛々しい甲冑姿で、竹千代君像を見守るように設置されている。

内政と外交を充実させ、今川氏を発展させていく

天文末期(1532~55)の頃には、今川氏はそれまで治めていた駿河・遠江に加えて、ほぼ三河(愛知県)の領国化に成功します。そして、領国の拡大とともに支配体制を着実なものとしていきました。例えば、検地の実施、家臣団・寺社統制、商工業・伝馬(てんま)政策、鉱山開発などがあります。

また、天文22年(1553)には、分国法「仮名目録追加」を制定します。これは、父・氏親が制定した「仮名目録」に追加する形を取った領国内の法です。両者を合わせて「今川仮名目録」と呼びます。

さらに、西進を目指す義元は領国である東部の政治を安定させるため、天文23年(1554)には政略結婚による北条氏康(うじやす)、武田晴信(はるのぶ、信玄)との三者同盟を完成させます(=甲相駿<こうそうすん>三国同盟)。さらに永禄元年(1558)には、駿遠支配を子息・氏真(うじざね)に分掌させ、自らは三河支配と尾張領国化を策しました。こうした一連の内政と外交の充実、連携によって今川氏は発展していったと考えられています。

桶狭間古戦場公園にある今川義元像

「桶狭間の戦い」にて討死

そして、永禄3年(1560)5月、駿遠三の兵力を動員し、尾張へ侵入します。義元は、織田方の丸根(まるね)・鷲津砦(わしづとりで)を陥落させ、同月19日、本陣を桶狭間(現在の愛知県豊明市)に移しました。しかし、そこでの在陣中、織田信長の急襲を受け、壮烈な討死を遂げたのでした。

桶狭間の戦いにて(東京都立中央図書館蔵)

ちなみに、家康はこの戦いに今川方の先鋒として参陣していました。しかし、義元が戦死したという情報が入り、敵中に孤立してしまう可能性が出てきたため、夜陰に紛れて大高城を脱出。今川兵が逃げ去り、空き城となった岡崎城に帰還します。その後も今川方として戦いましたが、今川氏からの援助はなかったため、独立。

こうして今川氏と家康との人質関係は、義元の死で終止符が打たれました。岡崎城城主となり、翌年、西三河を平定した家康は、ここから天下人まで駆け上がっていくのです。

まとめ

織田信長と戦いを繰り返し、徳川家康を育てた人物である「今川義元」。領国支配にも尽力した政治手腕から「軟弱な公家大名」という評価は、いささか不釣り合いとも感じられます。しかし、これは、その後の近世史書類において、義元を戦国大名の器量として描いていない記述の影響があるようです。幕府の手前、家康を人質とした義元を良く描くことができなかったからではないか、と推察されます。

ただ、残された当時の史料による限り、義元はもっとも有能な戦国大名の一人だったとする見解もあるようです。また、彼の下で幼少期から青年期を過ごした点から、義元が家康の人格形成に大きな影響を及ぼしていたことは確かなのではないでしょうか。

※表記の年代と出来事には、諸説あります

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)

 


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