はじめに-武田信玄とはどんな人物だったのか

武田信玄は、「風林火山」の言葉で名の知れた、有力な戦国大名の一人です。当初は甲斐国の大名でしたが、のちに信濃、駿河と上野(こうずけ)、飛驒、美濃、三河、遠江(とおとうみ)の一部を支配する戦国大名にまで成長します。

川中島の戦いで、越後の戦国大名・上杉謙信と一騎打ちした話が有名な信玄は、特徴的な甲冑姿もあって猛々しいイメージもありますが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、徳川家康に戦国を生き抜くとはどれほど厳しいことなのかを知らしめる、「生きる教科書」のような人物(演:阿部寛)として描かれます。

目次
はじめに-武田信玄とはどんな人物だったのか
武田信玄が生きた時代
武田信玄の足跡と主な出来事
まとめ

武田信玄が生きた時代

武田信玄は、日本各地で戦国大名による勢力争いが激化していた動乱期に生まれました。この時代は実力本位であり、「下剋上」という言葉に象徴されるように、下の者が上の権力者を倒し、既存の秩序が崩れていく時代だったのです。そんな時に、甲斐国(かいのくに)を中心に大大名として名を挙げたのが、信玄でした。

武田信玄の足跡と主な出来事

武田信玄は、大永元年(1521)に生まれ、天正元年(1573)に没しました。その生涯を出来事とともに見ていきましょう。

武田信虎の子として生まれる

信玄は、甲斐国の戦国大名・武田信虎の子として生まれます。母は大井信達(“のぶなり”もしくは“のぶさと”)の娘。幼名は太郎、勝千代といい、元服後に晴信と改名しました。任じられた官位は大膳大夫 (だいぜんだゆう) 、信濃守 (しなののかみ) で、「信玄」と名乗るのは永禄2年(1559年)に出家してからです。「信玄」以外にも、「法性院(ほうしょういん)」「徳栄軒(とくえいけん)」とも称しました。

武田晴信(信玄)像

領国の拡大

天文10年(1541)、信玄は父である信虎を駿河の今川義元の所に追い出し、自ら当主の座に就任。このような行為に至った要因には、信玄と信虎との関係が悪化していたこと、さらに信虎が家臣団とも関係が良くなかったことが挙げられています。戦国時代は下剋上という言葉からもわかるように、実力がものを言う時代。親子間で争いに発展することもありました。

信玄は当主になった直後からたびたび信濃へ侵入、諏訪氏・小笠原氏・村上氏といった信濃の大名を圧迫し、領土の拡大を図りました。

拡大政策によって、南に勢力を伸ばしたい越後の上杉謙信と対立するようになり、衝突を繰り返しました。天文22年(1553)には、川中島にて両者は初めて交戦。これが有名な川中島の戦いで、永禄7年(1564)までの主な戦闘だけでも、5回にも及んでいます。とりわけ永禄4年(1561)の戦いは、信玄と謙信との一騎打ちの話が有名ですが、真偽は不詳です。

川中島の戦い(『大日本歴史錦繪』国立国会図書館デジタルコレクションより)

小田原北条氏との和睦

謙信と対立する中で、信玄は小田原の北条氏と手を結び、謙信の南下を阻止しました。そのころには、飛騨や美濃にも兵を進め、領国化に成功しています。

その後、北条氏と対立するようになり、伊豆などで北条氏と激しい戦闘を展開。永禄12年(1569)には、北条氏の本拠地である小田原城を包囲するに至ります。しかし、この後、元亀2年(1571)に北条氏康の遺言によって和睦することに。同じころに、信玄は常陸(ひたち)の佐竹氏や安房(あわ)の里見氏など関東の諸大名にも接近し、同盟関係を結ぶことになりました。

家康と戦う。次ページに続きます

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