はじめに-武田信玄とはどのような人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する武田信玄(演:高嶋政伸)のすごさは、「戦が強かった」で片づけられないところにあります。父を追放して家を継ぎ、上杉謙信と川中島でぶつかる。同盟を組み替えながら駿河(現在の静岡県東半部)を手に入れ、最後は「上洛を見据えた西上作戦」へ…。

一歩間違えれば国が割れるような局面を、信玄は軍事と制度、そして外交で切り抜けていきます。

この記事では、甲斐の一国主から大大名へと変貌した信玄の道のりを丁寧に追います。

『豊臣兄弟!』では、戦国最強と称された甲斐(現在の山梨県)の戦国大名として描かれます。

武田信玄
武田信玄

武田信玄が生きた時代

信玄が活躍した16世紀中ごろは、各地の戦国大名が領国を広げ、同盟と敵対がめまぐるしく入れ替わる時代でした。

甲斐の武田氏は、信玄の代で信濃(現在の長野県)・駿河へ勢力を伸ばし、さらに上野(現在の群馬県)・飛騨(現在の岐阜県北部)・美濃(現在の岐阜県南部)・遠江(現在の静岡県西部)・三河(現在の愛知県東部)の一部にまで影響を及ぼす「大大名」へと成長します。

一方で、越後(現在の佐渡を除く新潟県全域)の上杉謙信との対決、相模(現在の神奈川県)の北条氏との駆け引き、駿河の今川氏の没落、そして畿内で台頭する織田信長との対峙が、信玄の選択を厳しくしていきました。

武田信玄の生涯と主な出来事

武田信玄は大永元年(1521)に生まれ、天正元年(1573)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

父・信虎を追放

武田信玄は戦国大名・武田信虎の長男として大永元年(1521)に生まれ、幼名は太郎・勝千代。元服後は晴信(はるのぶ)と名乗りました。

幼い頃から帝王学を学んだともいわれ、天文5年(1536)に元服すると、父・信虎の海ノ口城(現在の長野県南牧村)攻めで初陣を経験します。ここで信玄はしんがりを務め、相手の隙を突いて勝利に導いたそうです。

ところが信虎は、この働きを評価しなかったとされます。好悪の激しい信虎は信玄を遠ざけ、次男の信繁に跡目を譲ろうとした、という説もあります。

ただ救いなのは、信玄と信繁の仲は良好だったということ。のちに信繁は第4次川中島の戦いで、兄のために討死しています。

その後、天文10年(1541)、21歳となった信玄は父の圧政を見かね、家中の支持を得て信虎を縁戚関係のあった駿河の今川義元のもとへ追放。自ら当主となります。

ここから武田家は、信玄のもとで領国拡大へと大きく舵を切っていくのです。

信濃侵攻を開始

家督相続後、信玄は信濃へ侵攻を進め、諏訪氏・小笠原氏・村上氏などを制圧していきます。敗走した村上氏らが越後の長尾景虎(のち上杉謙信)を頼ったことで、信玄は越後の雄と正面から向き合うことになります。

上杉謙信
上杉謙信

「甲州法度之次第」と領国の整備

信玄は戦だけでなく、領国の制度整備にも力を注ぎました。天文16年(1547)には「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」を制定したことが知られています。

遠征を続けるほど、国内のルールと統治は揺らぎやすいもの。その弱点を、法と仕組みで補おうとした点は、信玄の大きな特徴だといえるでしょう。

上杉謙信と激突|川中島の戦い

信玄と謙信の対決は、天文22年(1553)以降、北信濃を舞台に繰り返されます。これがいわゆる「川中島の戦い」で、永禄7年(1564)までの主要な対戦だけでも5度に及んだとされます。

永禄4年(1561)の戦いは特に有名で、信玄と謙信の一騎討ちの俗説も残りますが、真偽は不詳。確かなのは、この長い対決が信玄の軍事と外交の両面を鍛え続けたということです。

川中島古戦場史跡公園に隣接する八幡社にある、武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの像

三国同盟

信玄は北条氏康・今川義元との婚姻関係を含む同盟関係を梃子(てこ)に、西上野へ侵入し、北関東にも影響を広げようとします。

この局面でも、謙信との対決は続きます。信玄は北条と連携し、謙信の南下を阻む構図を作りました。

家中の衝撃、長男・義信の刑死と三国同盟の解消

長男・義信(よしのぶ)の離反事件が起り、家臣団に動揺が広がりました。永禄8年(1565)義信の謀反が発覚し、義信は幽閉され、関係した重臣層が処断されました。嗣子を欠くことになった信玄は、直ちに高遠城主であった四郎勝頼に織田信長の養女を妻として迎え、体制の立て直しを計ります。

永禄10年(1567)には、義信に切腹を命じました。義信が刑死すると、その妻(今川義元の娘)を今川氏真のもとへ帰し、駿河との同盟関係を絶ちます。翌年末には駿河へ侵攻し、氏真を掛川へ追いました。

氏真は北条氏に助けを求め、氏康が駿河に出兵して信玄と対戦。これにより三国同盟は解消され、以後、北条氏との抗争が激化していきました。

永禄12年(1569)10月、信玄は小田原城を包囲し、三増峠の戦いでも勝利したとされます。その後も北条氏との戦いは続きますが、元亀2年(1571)には北条氏康の遺言により和議が成立しました。

現在の小田原城

徳川家康・織田信長との対決へ…

北条と和したのち、信玄の目標は「上洛を見据えた西上」へと傾いていきます。元亀3年(1572)、遠江・三河への出兵が相次ぎ、家康、そして背後の信長との対決が始まります。

同年10月、信玄は自ら大軍を率いて甲府を出発。12月、三方ヶ原で家康・信長の連合軍を一蹴。その後も三河へ侵入し、徳川方の諸城を攻め落としていきます。

その一方で積極的な外交作戦により越前(現在の福井県東部)の朝倉氏、近江(現在の滋賀県)の浅井氏、本願寺勢力に働きかけて織田信長の包囲網を作っていきました。

野田城の陣中で病に倒れる

しかし、進撃のさなかに信玄は病床に伏します。天正元年(1573)4月、三河野田城包囲の陣中で発病し、甲府へ戻る途中、信濃伊那谷の駒場で4月12日に病死しました。53歳でした。

その死は「三年間喪を秘し、領内の備えを固め、必ず京へ攻め上れ」という信玄の遺言どおり3年間伏せられ、天正4年(1576)4月に本葬が営まれ、恵林寺が墓所と定められています。

信玄の統治|交通・治水・城下町づくり

信玄は戦の勝ち負けだけでなく、統治の基盤づくりでも知られます。交通路の整備と伝馬制度、治山・治水(信玄堤など)、占領地の支城領化、検地や人返し法、商工民を集めた甲府の城下町形成など、領国の基盤を整えていきました。

晩年の肖像画は僧体で、恰幅のいい姿に描かれ、和歌や詩文にも通じた文武に優れた大名像が伝わっています。

まとめ

三方ヶ原の勝利の先で病に倒れ、志半ばで世を去った信玄。けれど、その統治の設計は、戦の天才だけではない「文武両道の戦国大名」としての輪郭を、今もはっきり残しています。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『新版 日本架空伝承人名事典』(平凡社)

 

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