はじめに-朝廷の人々
平安末期から鎌倉初期は、武士・貴族・天皇・上皇の勢力が複雑に入り乱れた時代でした。戦った武士のみならず、朝廷を含めた多くの人々の思惑が絡まったのが源平合戦です。では、その中でも朝廷の人々はどのような生涯を送ったのでしょうか。今回は、後白河法皇の寵姫・丹後局、法皇の息子・以仁王、そして法皇の従者・平知康といった、朝廷に関係する人々を紹介していきます。
各人物の紹介
ここからは、丹後局、以仁王、平知康を取り上げ、紹介していきます。
丹後局
丹後局(たんごのつぼね)は、後白河法皇の寵愛を受け、法皇の没後には、院政の陰の実力者として力をふるった人物です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、後白河法皇の寵姫(演:鈴木京香)として描かれます。
丹後局は実名を高階栄子(たかしなえいし)と言い、延暦寺の僧・澄雲(ちょううん)の娘にあたるとされています。はじめ、後白河法皇の近臣・平業房(なりふさ)に嫁ぎました。しかし、治承3年(1179)に平清盛がクーデターを起こし、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した際に、夫・業房は伊豆国へ配流となり、やがて死去。彼女は鳥羽殿に幽閉中の法皇に仕えて、「丹後局」と称するようになります。
以後、法皇は一時も彼女を傍から離さないほど、寵愛を得たとされています。養和元年(1181)には法皇との間に、皇女・覲子(きんし)=宣陽門院(せんようもんいん)が生まれます。やがて朝廷内での丹後局の発言力は強大になり、九条兼実が日記『玉葉』に「近日朝務ひとえにかの脣吻(しんぷん)にあり」と記したほどでした。
建久3年(1192)に法皇が没しましたが、その遺領として娘に譲られた膨大な荘園群を背景にして、丹後局は京都政界の中心として活躍します。また、源頼朝の娘・大姫の入内工作に関与し、頼朝夫妻の上洛を歓待した人物とされています。そして、その立場を利用し、源通親(みちちか)らと謀って、政敵・九条兼実(かねざね) を失脚させ、朝廷内の親幕府派の勢力を殺ぐことに成功したのでした(=建久7年の政変)。
しかし、通親の没後は昔日のおもかげを失い、京都・東山の浄土寺に隠れ住んだとされています。
以仁王
以仁王(もちひとおう)は、後白河天皇の子で、平氏討伐の令旨を発した人物です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、後白河法皇の第三皇子(演:木村昴)として描かれます。
母は権大納言・藤原秀成(すえなり)の娘・成子です。三条高倉に住み、高倉宮と呼ばれました。以仁王は若くして英才の誉れが高く、人望もあり、皇位継承の有力候補と目されていました。しかし、異母弟・憲仁(高倉天皇)の母・建春門院(けんしゅんもんいん)の妨害により、親王宣下を得られず、不遇のうちに成長します。
治承3年(1179)、平氏のクーデターにより父・後白河法皇が幽閉され、以仁王自身も多年知行してきた常興寺(領)を没収されてしまいました。そこで翌年の4月、源頼政(よりまさ)の勧めにより、平氏討伐の挙兵を決意したのでした。
自らを「最勝(さいしょう)親王」と称し、平氏討伐後は皇位につくことを宣言した令旨(りょうじ)を、源行家(ゆきいえ)を召して全国の源氏に伝えさせました。また、この令旨は、源頼朝が東国の武士を糾合して、東国支配権を主張、後に鎌倉に幕府をつくるきっかけとなります。
しかしこの企ては早々に漏れ、三井寺から南都に敗走することとなります。宇治川(うじがわ)での戦いで、頼政以下がことごとく討ち死にしたとされ、このとき王は流れ矢に当たって死んだといわれています。治承4年(1180)5月26日、山城国(=現在の京都府)綺田(かばた)にて、30歳でこの世を去りました。
挙兵には失敗したものの、王の令旨は治承・寿永内乱の起爆剤となり、そのため生存説も長く絶えなかったと考えられています。
平知康
平知康(ともやす)は、後白河法皇に仕えた平安~鎌倉時代の武士です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、後白河法皇の側近(演:矢柴俊博)として描かれます。
父は平知親(ともちか)で、父とともに後白河院に仕えました。安元2年(1176)4月の院の叡山御幸には北面として従者を務めました。北面とは、院の御所の北面に詰め、院中の警備にあたった武士のことを指します。
その後治承2年(1178)正月、左衛門尉(さえもんのじょう)となり、平清盛のクーデター後は院の「第一近習者」とみなされます。しかし養和元年(1181)正月には、清盛により追捕され解官となります。ただ、清盛の死後すぐに復帰して還任したのでした。
平家の都落ち後は、検非違使を務める知康への院からの信頼は厚くなっていました。しかし寿永2年(1183)、源義仲(よしなか)による院の法住寺御所攻め(=法住寺合戦)が起こると、防衛できず敗れたために、知康は検非違使の職を解かれてしまいます。
しかし、翌元暦元年(1184)正月、義仲の滅亡後すぐ復帰し検非違使となります。ただ、文治2年(1186)正月には源義経に与同の件で、頼朝の奏請により解官されてしまいます。やがて弁明のため鎌倉に下ってからは、今度は幕府に出仕し、特に蹴鞠により2代目将軍・頼家(よりいえ)の側近として仕えました。
しかし、建仁3年(1203)9月の「比企氏の乱」で頼家が幽閉された後、帰京を命ぜられます。彼の生涯は、源平争乱期の有為転変の社会情勢をよく反映しています。また、知康はその鼓の腕前から「鼓判官(つづみほうがん)」とも呼ばれたとされています。
まとめ
この時代の政争・戦乱の陰の演出者とされる後白河法皇を中心とした、朝廷内の人々の生涯をみていきました。30年もの間、上皇として君臨し続けた後白河法皇の影響力はもちろんのこと、その周囲の人物たちもまた、歴史に影響を及ぼした人々であったといえるのではないでしょうか。
文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)
『日本人名大辞典』(講談社)