家康と戦う

信玄は、北条氏との和議を成立させた後、上洛のために西に軍勢を進めるようになります。元亀3年(1572)になると、相次いで遠江・三河へ出兵し、家康とその背後の織田信長との対立が激化。同年12月には、家康の居城・浜松に接近、三方ヶ原(みかたがはら)で家康・信長の連合軍を撃破します。家康にとって人生最大の惨敗となりました。

三方ヶ原の戦い(『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』より)

最期

信玄は三方ヶ原の戦い後、三河に侵入し、徳川方の城を相次いで攻略。しかし、三河の野田城包囲の陣中で病床に伏し、甲府に帰還する途中の信濃駒場で病死。53年の人生に幕を閉じることになります。天正元年(1573)のことでした。

浮世絵師・月岡芳年が描いた、信玄の最期(『大日本名将鑑』より)

信玄の遺言通り、3年間信玄の死は隠され、天正4年(1576)に本葬が営まれ、今の山梨県甲州市にある恵林寺(えりんじ)が墓所と定められました。その後、四男の勝頼によって高野山 (こうやさん) へも分骨が行われ、その際、信玄の自画像や遺品などが奉納されています。

内政面

信玄は、軍事面だけではなく、内政についても評価がされています。

信玄は領国内の制度の整備に力を入れ、天文16年(1547)には「甲州法度之次第 (こうしゅうはっとのしだい) 」を制定。家臣に対する数々の規律を、主な内容としています。

また、甲府を中心に領国内の交通路を整備して伝馬制度を確立した、釜無川に信玄堤(づつみ)を構築して川の氾濫を抑え、新田の開発を可能にしたことも有名です。

他にも、占領地に旧城主や重臣を配置して支城領を形成し、さらには、領国内の農民支配のための検地を実施しました。また、商人・職人などを甲府に集住させて城下町を建設し、駿府や小田原に肩を並べる都市にまで発展させたことなどが知られています。

まとめ

武田信玄は、軍事においても内政においても大きな功績をあげました。しかし、信玄の死後、武田氏は滅亡への道を歩みます。

信玄の跡目は勝頼が継ぐことに。しかし、勝頼は信玄が拡大した領土を維持できず、さらには天正3年(1575)の長篠の戦いで信長・家康連合軍に大敗。支配領域は縮小の一途をたどり、最後は信長による攻撃や重臣による反乱により、武田氏は滅亡してしまいました。

しかしながら、信玄は今でも人気の高い戦国大名の一人として、人々の心に生き続けているのです。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/三鷹れい(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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