はじめに-頼家の子
鎌倉幕府を開いたのは言わずと知れた源頼朝ですが、彼の亡き後、源氏将軍はわずか3代で途絶えてしまいます。いつの時代も権力闘争の火種となるものといえば跡継ぎ問題ですが、頼朝の子孫たちもまた、その闘争に巻き込まれる運命にありました。今回は、中でも数奇で短い生涯をたどった、頼家の長男・一幡と頼家の三男・公暁を紹介していきます。
各人物の紹介
ここからは、第2代将軍の子・一幡と公暁を取り上げ、紹介していきます。
一幡
一幡(いちまん)は、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家(よりいえ)の長男です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、側室・若狭局が産んだ長男(演:未定)として描かれます。
一幡は、建久9年(1198)源頼家の長男として生まれます。母は比企能員(よしかず)の娘である若狭局です。初代将軍・源頼朝にとっての初孫でもあります。しかし一幡が生まれた翌年に頼朝は死去。源頼家が家督を相続します。
一幡が6歳となった建仁3年(1203)7月に、父である源頼家が重病となり、危篤状態に陥ったことで後継問題が起こります。この時将軍職を継ぐ候補は、源頼家の嫡子である一幡と、源頼家の弟・源実朝(さねとも)の2人です。本来であれば、嫡子である一幡に全ての領地が相続されるはずでした。しかし、関東28国の地頭職と関西38国の地頭職は一幡の叔父である実朝に譲与されることが定められました。
この分割相続の決定に不満を持った比企能員は、これを初代執権・北条時政の陰謀とみて時政追討を企てます。しかし、この密議を聞いていた北条政子が、2人の会話を父・時政に伝えたのでした。政子から報告を受けた時政は、政所別当・大江広元(ひろもと)に相談し、比企能員を誅殺することを決めます。
建仁3年9月、比企能員が北条軍に討たれると、比企一族は一幡の館である「小御所」(こごしょ)に籠城。しかし、追討軍に攻められ、館には火がかけられます。それにより、一幡も含めて比企一族はほとんどが自害。また、生き残っていた者たちもことごとく討伐され、比企一族は滅亡しました。
このように「比企能員の乱」に巻き込まれる形で、一幡はわずか6歳でこの世を去ったのでした。
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