はじめに-阿野時元とはどんな人物だったのか

阿野時元(あのときもと)は、頼朝の弟・阿野全成(ぜんじょう)の子にあたる鎌倉時代の武将です。3代将軍・実朝の死後、自らが関東を支配することを企て、兵を集めるも、幕府の御家人らに攻められ自殺しました。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、頼朝の異母弟・阿野全成と義時の妹・実衣(阿波局)の息子(演:森 優作)として描かれます。

目次
はじめに-阿野時元とはどんな人物だったのか
阿野時元が生きた時代
阿野時元の足跡と主な出来事
まとめ

阿野時元が生きた時代

阿野時元が生きた鎌倉時代初期は、頼朝の死を皮切りに幕府内の権力が移り変わっていく時代になります。頼朝の跡を継いだ頼家・実朝という2人の将軍が相次いで殺され、執権・北条氏および有力御家人らが権力闘争を繰り広げました。そんな中、頼朝の異母弟の子として源氏の血筋に生まれた阿野時元は、兵を挙げ、その戦いに身を投じていったのでした。

阿野時元の足跡と主な出来事

阿野時元は、生年は不詳で、建保7年(1219)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

阿野全成の子として生まれる

阿野時元は、頼朝の異母弟・阿野全成の四男です。母は北条時政の娘・阿波局。時元は血筋上、源頼朝、そして北条政子・義時の甥に当たります。父・全成には、時元の他にも頼全(らいぜん)・道暁(どうぎょう)など、複数人の子供がいますが、阿波局との子供は時元のみです。そのため時元は四男ながら阿野家の嫡男(家の跡取り)であり、そのために他の兄弟とは違い出家はしていません。

父の全成は、幼い頃から京都の醍醐寺(だいごじ)に入って僧となりました。兄である頼朝が挙兵すると、彼を訪れ、頼朝を感激させたとされます。その後、武蔵国長尾寺に住し、やがて駿河国阿野(=現在の静岡県沼津市の西方か)に住みました。そして阿波局を娶ると、嫡男・時元をもうけたとされます。

父・全成が誅殺される

しかし、頼朝亡き後の建仁3年(1203)5月に、全成は謀反の疑いありとして、2代将軍・頼家により逮捕されて殺害。ついで兄・頼全も京都で殺されています。

この際、時元は北条時政や北条政子の尽力で連座(れんざ:罪を犯した人物の家族などを罪に問うこと)を免れ、暗殺から逃れました。そうして、母と共に父の遺領・駿河国阿野荘(=現在の静岡県沼津市周辺)に隠れ住んだとされます。

反乱を起こす

建保7年(1219)1月、3代将軍・実朝が公暁によって暗殺される事件が起こります。時元にとって従兄弟にあたる実朝の死により、征夷大将軍の座は空席となったのでした。するとその翌月、時元はその位を望み挙兵。それは、実朝が公暁に殺された十数日後のことでした。鎌倉には、駿河国の時元が大軍を率いて深山に城郭を築き、宣旨を賜わって東国を支配しようと企てていると報じられたとされます。

尼将軍・北条政子は執権・義時に命じて、金窪行親(かなくぼゆきちか)以下の御家人を駿河に遣わしました。同2月22日に鎌倉勢が駿河に入ると、阿野側である反乱軍は防ぐ力もなく一同敗死、時元も自殺したとされます。

ただ、この時期に執権・義時の手によって源氏の血統が次々と粛清されていることから、時元の事件もその一環として起こったという見方もあります。その粛清に備えて慌てて兵を集めたものの、間に合わずに滅ぼされた、とする見解です。実際にどの程度時元が自ら望んで挙兵したのか、といった詳しいことは現在も不明となっています。ただ、母・阿波局の立場からすると、この出来事は弟・義時が派遣した軍勢に我が子を殺された悲劇といえるでしょう。

源氏の血統が途絶える。次ページに続きます

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