はじめに-藤原兼子とはどんな人物だったのか

藤原兼子(けんし)は、鎌倉前期の女性政治家です。「卿局(きょうのつぼね)」とも呼ばれる兼子は、後鳥羽上皇の乳母であったことから、院の信任を得て院政に重きをなしました。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、北条政子と対決する大政治家(演:シルビア・グラブ)として描かれます。

目次
はじめに-藤原兼子とはどんな人物だったのか
藤原兼子が生きた時代
藤原兼子の足跡と主な出来事
まとめ

藤原兼子が生きた時代

藤原兼子が生きた時代は、平安末期から鎌倉前期にあたります。鎌倉幕府によって本格的な武家政権による統治が開始した時代です。その中でも朝廷は「揺るぎない権威」として存在し、幕府との関係を築いていきます。朝幕の両者の思惑が絡み合いながら変化していく関係性の中で、兼子は女官として、朝廷側の立場でその歴史に関わっていったのでした。

藤原兼子の足跡と主な出来事

藤原兼子は、久寿2年(1155)に生まれ、寛喜元年(1229)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

宮廷貴族の娘として生まれる

藤原兼子は、久寿2年(1155)に宮廷貴族の娘として生まれます。父親は歌人、歌学者である藤原範兼(のりかね)です。父の官名・刑部卿(ぎょうぶきょう)にちなんで「卿局」と通称されました。また、正治元年(1199)に「典侍(てんじ)」、元久元年(1204)に「従三位(じゅさんみ)」、承元元年(1207)に「従二位」となり、自身の官位昇進に応じて「卿典侍」「卿三位」「卿二位」とも呼ばれました。

後鳥羽天皇の乳母となる

兼子と姉である範子(はんし)は、父・範兼の死後、叔父で範兼の養子になった範季(のりすえ)のもとで育ちます。範季は後白河法皇の側近であり、治承4年(1180)に高倉天皇の第四皇子・尊成親王(のちの後鳥羽天皇)が誕生すると、その養父となりました。それにより姉妹は後鳥羽天皇の乳母としての地位を得たのでした。

この時期は源平合戦が佳境を迎え、平家は都落ちした後、文治元年(1185)に壇ノ浦にて滅亡を迎えました。そこで海に沈んだ安徳天皇に変わって即位したのは、兼子が乳母を務めた第四皇子でした。彼は即位し、後鳥羽天皇となります。乳母で信頼の篤い兼子は、後鳥羽天皇のそばで仕えました。

天皇の側近としての地位を得る

当時の朝廷は、後白河法皇が院政を行い、政権を握っていました。しかし、建久3年(1192)に法皇が没すると、法皇と対立していた関白・九条兼実が実権を握りました。すると、源通親(みちちか)ら法皇の旧側近はこれと対立。その後、通親は策謀によって兼実を失脚させ、政権を握ったのでした。

建久9年(1198)、後鳥羽天皇は通親の外孫にあたる皇子・為仁(土御門天皇)に譲位。上皇として院政を始めたのでした。兼子はその翌年正治元年(1199)に「典侍(てんじ)」という天皇の側近女官の地位につくことになります。

ちなみに、後鳥羽天皇が譲位した土御門天皇は、乳母を務めた姉・範子の孫にあたります。範子と僧・能円(のうえん)の間に生まれた、在子(承明門院)が土御門天皇の母です。

後鳥羽上皇院政の時代

後鳥羽上皇の院政開始後も通親が実権を持っていましたが、建仁2年(1202)に彼が没した後は、後鳥羽上皇の独裁となります。ここから承久3年(1221)まで、土御門・順徳・仲恭天皇の3代にわたり院政を行いました。

兼子は典侍となって間もない45歳のとき、同じく後鳥羽上皇に仕える公卿・藤原宗頼(むねより)と結婚。建仁3年(1203)に死別するも、年も改まらぬうちに同じく公卿の藤原頼実(よりざね)と再婚しました。

兼子は朝廷の重事を左右し、その威勢のほどは「権門女房」と評されるほどです。3代将軍・実朝がその夫人を京都に求めたときは、親縁の坊門信清(のぶきよ)の娘との婚儀を斡旋。また、建保6年(1218)北条政子が上洛した際には、実朝の後継者として、自分の養育している、後鳥羽上皇の子・冷泉宮頼仁(れいぜいのみやよりひと)親王を勧めたとも伝えられています。

こうした行為はいずれも、公家勢力を幕府に注入しようとする院政の方針に沿ったもので、上皇の意を受けてのことであったと推察されています。

「承久の乱」の勃発

こうした計らいにより当初は円滑だった公武関係でしたが、執権・北条氏を中心とする勢力は、後鳥羽上皇と対立しました。北条氏は上皇が御家人の権益を侵すことを警戒したのでした。承久元年(1219)、3代将軍・実朝が殺されると上皇はついに討幕を決意します。

実朝の後継として自らの皇子を将軍に迎えようとしていた後鳥羽上皇でしたが、これを拒絶されます。さらに上皇は寵姫・伊賀局(いがのつぼね)の所領である摂津国・長江(=現在の兵庫県尼崎市)、倉橋(=大阪府豊中市付近)両荘の地頭の廃止を要求します。幕府はこれを拒み、上皇との対立はさらに深まったのでした。

後鳥羽上皇は、討幕計画を進め、承久3年(1221)に執権・北条義時追討の宣旨を発して挙兵。こうして「承久の乱」が起こります。しかし、上皇方の予想を完全に裏切って、東国武士で追討令に応じる者はなく、逆に北条泰時らに率いられた幕府軍が大挙し、京都に攻め上ってきたのでした。その結果、追討令発布からわずか1か月後には、京都は幕府軍に占領されます。上皇は鳥羽殿に幽閉され、出家したのち、隠岐の島へ配流されたのでした。

朝廷勢力は衰えを迎える

「承久の乱」が失敗に終わり、上皇を失った兼子をはじめとする朝廷勢力は、次第に衰えていきます。そして兼子は、寛喜元年(1229)8月16日、75歳で没したのでした。本宅を構えた京極殿御所の旧地、二条町家をはじめ、兼子が集積した家地・荘園・動産の類は膨大な量に及びました。その多くは死に臨んで、猶子・修明門院重子(範季女)に譲られています。

まとめ

後鳥羽上皇の乳母を務め、政治家としても彼を支えた、影の実力者である藤原兼子。その活躍ぶりは幕府側の北条政子と対比されます。鎌倉時代の朝幕関係の転換点に、兼子と政子という二人の偉大なる女性政治家がそれぞれ存在していたのです。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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