はじめに-紫式部とはどんな人物だったのか?
紫式部(むらさきしきぶ)は、言わずと知れた、千年を超えるベストセラー『源氏物語』の作者。百人一首にも歌が選ばれているなど歌人としても名高い、日本を代表する女流文学者です。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、父のもとで並外れた才を発揮する主人公・まひろ(演:吉高由里子)として描かれ、宮中では藤原道長(ふじわらのみちなが)のバックアップを得て『源氏物語』を完成させます。
目次
はじめに-紫式部とはどんな人物だったのか?
紫式部が生きた時代
紫式部の足跡と主な出来事
まとめ
紫式部が生きた時代
紫式部が生きた平安時代中期は、藤原家が摂政・関白の座を独占し、天皇をしのぐ権力を握っていました。仮名文字が盛んに使われるようなり、それを用いた女流文学が花開いたのもこの頃。紫式部は藤原家を最盛期へと導いた藤原道長のもと、『源氏物語』全54巻を完成させました。
紫式部の足跡と主な出来事
紫式部の確かな生没年は不明ですが、一説に天延元年(973)頃に生まれ、長和3年(1014)頃に没したとされています。その生涯を主な出来事とともに紐解いていきましょう。
逸話に残る、才気あふれる文学少女
紫式部の生年は、天延元年(973)頃と推定されています。父は、当時有数の学者・詩人であった、藤原為時(ふじわらのためとき)、母は藤原為信の女(ふじわらのためのぶのむすめ)。また、紫式部は、この時代の多くの女性がそうであるように本名も不詳で、宮中では藤式部(とうのしきぶ/ふじしきぶ)と呼ばれていたようです。
この呼び名は藤原家の藤と父の官職の式部丞(しきぶのじょう)にちなんでのもの。紫式部と呼ばれるようになったのは「源氏物語」が有名になり、ヒロインの紫の上に由来するといわれます。
母を早くに亡くし、父・為時と暮らしていた紫式部。為時は、正五位下と下級貴族ながら花山(かざん)天皇に漢学を教え、曽祖父は三十六歌仙の一人、藤原兼輔(かねすけ)という環境もあり、幼い頃から文学に親しんできました。
才気に溢れ、為時が紫式部の兄・藤原惟規(のぶのり)に中国の古典『史記』を教えていたとき、そばで見ていた紫式部が、兄より早く覚え、為時が「この子が男の子だったら……」と残念がった逸話はよく知られています。
年の差婚、そして『源氏物語』執筆開始
紫式部が、越前守に任ぜられた為時に従って、国府のあった現在の福井県武生(たけふ)へ赴いたのは23歳頃といわれています。式部はこの地で1年余りを過ごし、任期中の父を残して都へ戻りました。その帰路で詠んだ歌が、
「名に高き越の白山ゆきなれた息吹の嶽をなにとこそ見ゆ」
(越前から有名な白山の雪を見慣れたので、伊吹山がどんなに白くてもたいしたものとは思わない)
この「越の白山(こしのしらやま)」という表現は、源氏物語・末摘花にも登場しています。
ところで、なぜ一人で都へ戻ったのか。それは結婚のためだったといわれています。式部には、越前へ行く前から熱心に求婚する男性がいました。藤原宣孝 (のぶたか)です。宣孝は式部より20歳ほども年上で、亡くなった先妻との間に多くの子女があり、おまけに女性関係が派手。
やがて一人娘、のちの歌人・大弐三位(だいにのさんみ)を授かりますが、紫式部はさみしい日々を送ったようです。当の宣孝は長和3年(1001)春に死去。この年の秋、絶望感を埋めるように書き始めたのが『源氏物語』でした。
【宮中へ。中宮・彰子に仕える。次ページに続きます】