■山陰海岸ジオパークの美しい風景
なお、この高台からは有名な立岩(たていわ・山陰海岸ジオパークの景勝地)を見下ろすことができた。竹野川河口の砂洲にそびえ立つ周囲が約1キロ・高さ20メートルにも及ぶ全国屈指の巨大な一枚岩柱状の玄武岩である。ここは、古代に大陸からの渡来船が漂着したところともいわれる。
また目を立岩の対岸後ヶ浜(のちがはま)海岸に転ずると、日本海を見つめてたたずむ母子像が見える。用明天皇の后・間人(はしうど)皇后と子息の厩戸皇子(うまやどのおうじ、後の聖徳太子)のモニュメントである。
6世紀末、ヤマト政権内の蘇我氏と物部氏との争乱を避け、皇后と皇子は間人(たいざ、京丹後市)に身を寄せたと伝えられている。村人たちの手厚いもてなしへのお礼にと、この地を去る際、皇后は自らの名「間人」(はしうど)をこの地に贈ったという。
村人たちは、畏れ多いことから皇后が退座したことにちなみ読み方を「たいざ」としたと伝えられる。ちなみに、間人漁港で水揚げされる松葉カニが有名な「間人(たいざ)ガニ」であり、品質・味ともに最高級と言われている。
まことに美しい風景を眺めながら、この竹野川流域を中心とする古代「丹後王国」の地は、北九州・出雲という日本海側に栄えた王権とヤマト王権を結ぶ結節点に位置することに気づいた。古代の航海技術では、中国・朝鮮半島方面からの直行ルートは考えにくいからである。そうすると、「丹後王国」はガラス細工や製鉄といった高度な技術を背景とする中継貿易で栄えたとみられる。
しかし、ヤマト王権の力が浸透するなかで、その出先国家となったのではなかろうか。それは、竹野神社の伝承とも重なり、さらには大阪の大仙古墳(仁徳天皇陵)と同様の長持型石棺が、竹野川河口近くに位置する古墳時代中期の円墳・産土山(うぶすなやま)古墳(国史跡、京丹後市)などで確認されていることも示唆的である。
したがって、丹後半島の巨大な前方後円墳はヤマト王権の力を誇示するものとみることもできるのではなかろうか。巨大古墳の全面を覆う葺石は、いずれも日本海を航行する船舶からの視線を意識してのものであろう。大陸からの品々を満載した大型船舶が、白色に輝く巨大前方後円墳をめざして竹野湖に入ってきたのではなかろうか。
30年以上も前に受けた門脇氏のエネルギッシュな講義を回想しつつ、失われた「丹後王国」を後にすることにした。鄙びた半島の町や村に、かそけき歴史の光をみいだすのが、私たち一行の身上である。千五百年の時空を隔てたこの丹後半島の地に、豊穣な繁栄がもたらされていたことを確信した旅であった。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。