■丹後王国は、ヤマト政権と連携した?

今回の私たちの旅は、まさに古墳紀行だった。網野銚子山古墳は段丘上にあり、往時は入江に面していたものと推測される。おそらく築造に要する埴輪や葺石などの大量の資材は、舟や筏を利用して運ばれたのだろう。このようなロケーションは、神明山古墳でも同様だった。とにかく、見晴らしがよいのである。

これらの古墳が築かれた当時、この地域一帯には潟湖(せきこ)・竹野湖があり、良港があったと推定され、古代丹後の王たちは、農耕というよりも環日本海流通と深く関わっていたと考えられている。古墳を飾っていた埴輪のなかに、舟を漕ぐ人物を描いたものが発見されているのは、それと関係する。

神明山古墳の麓には竹野神社(たかのじんじゃ・延喜式内社)が鎮座する。開化天皇の妃竹野姫が、郷里であるこの地に帰り、天照大神を祀ったという伝承からは、ヤマト王権と丹後王国との連携を想像することが可能である。

古墳時代後期(6世紀末~7世紀初)を飾るのが、大成(おおなる)古墳群である。竹野の河口海岸の東側の切り立った崖の上に、古墳群が築かれている。日本海を見下ろす河岸段丘上に、横穴式石室を内部主体とする古墳が全部で13基確認されており、現在は公園として公開されている。

古墳からは須恵器・土師器などの土器や、刀剣・鉄鏃などの鉄器、碧玉製管玉・瑪瑙(めのう)製勾玉・ガラス小玉・金環(耳飾り)などの多様な装身具が発見されている。この地域の支配者のために築かれた群集墳とみてよいだろう。

私たち一行が訪れた日は快晴で、ここから沖の彼方まで実によく見渡せた。長年の風雨によって小振りの石室が露出し点在しているが、この独立した台地が死者を祀る特別の空間だったことを直感した。

大成古墳

海に面した高台にある大成古墳は6世紀末~7世紀の 古墳群。丹後古代の里資料館前館長の三浦到さんと。

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