明治という新しい時代とともに生まれた洋食。西洋の珍しき料理を日本流にアレンジし、今も愛され続ける洋食は、まさに和魂が込められた日本の味覚です。
創業100年を超える老舗の洋食店が東京には点在しています。そして、これらの洋食店には文豪と呼ばれる作家や詩人、画家らが多く集いました。
明治9年(1876)開業の『上野精養軒』では、祝賀会や壮行会などに、頻繁に利用されていたといいます。文学者であり翻訳家の上田敏。明治40年(1907)にアメリカ・ヨーロッパへの遊学を前に、与謝野鉄幹が幹事となり、その送別会が開かれました。
また二葉亭四迷は朝日新聞の特派員として明治41年(1908)にロシアへ赴任。その壮行会が上野精養軒で行われました。しかし二葉亭四迷は帰国途中に客死。その追悼式の会場も上野精養軒でした。
これらの会に参加し、自身の作品の中でも名前を挙げているのが、夏目漱石です。小説『三四郎』では、以下のように、ある会の会場が上野精養軒の設定になっています。
「どこであるのか」
「たぶん上野の精養軒になるだろう」
「ぼくはあんな所へ、はいったことがない。高い会費を取るんだろう」
<略>
「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャーに相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐(デナー)には早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」(『三四郎』より)
大正12年(1923)生まれの文人・池波正太郎も東京の洋食をこよなく愛したひとりでした。食通として知られる池波のエッセイには、食への探求と、大人のたしなみが詰まっています。銀座の『資生堂パーラー』については、こう記しています。
「戦後の三十年間、すべてが目まぐるしく変ったのに、ここの味だけが変らぬ。変らぬままに、戦前の繁栄をも持続させている。これは、まさに、「持続の美徳」というものであるまいか。」(『東京のうまいもの』より)
また、銀座の『煉瓦亭』には、14~15歳の頃から通い続けていたといいます。2階の窓際の席に座り、馴染みのポークカツレツの味を楽しみました。
「いまも、煉瓦亭の階段をあがって行くとき、二階からただよってくるうまそうな匂いこそ、昭和初期の洋食の匂いにまぎれもない。現在、こういう匂いのする洋食屋は、煉瓦亭の他に私は知らない。銀座の老舗中の老舗だ。」(『散歩のとき何か食べたくなって』より)
オムライスやカツレツ、ハヤシライス……ときどき無性に食べたくなるのが洋食です。長い時間をかけて名店が育んできた味を、さまざまなエピソードを辿りながら、訪ねてみるのも楽しいものです。
取材・文/関屋淳子
桜と酒をこよなく愛する虎党。著書に『和歌・歌枕で巡る日本の景