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弘前城になぜ豊臣と徳川が共に祀られたのか?【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】

歴史作家・安部龍太郎氏による『サライ』本誌の好評連載「謎解き歴史紀行~半島をゆく」。「サライ.jp」では本誌と連動した歴史解説編を、歴史学者・藤田達生先生(三重大学教授)がお届けしています。津軽半島編の最終回は、東北を代表する夏祭り「ねぶた」「ねぷた」 に迫ります。

扇型のねぷたを前にする直木賞作家の安部龍太郎さん(左)と筆者。

扇型のねぷたを前にする直木賞作家の安部龍太郎さん(左)と筆者。

私たちは、夕刻のひととき、弘前城の近くで行なわれた「ねぷた祭り」の見物で堪能した。三国志や水滸伝などの武者絵を題材とした大小約80台の勇壮な「ねぷた」がパレードするもので、1980年に重要無形民俗文化財に指定されている。その起源は、江戸時代の元禄年間からの「七夕祭りの松明流し・精霊流し・眠り流し」や「盆灯籠」などが融合変化したものといい、それが現在の華麗なねぷた祭りに発展してきたらしい。

弘前藩の支藩のあった黒石でも、江戸時代からねぷた祭りは行なわれている。現在は、約70台のねぷたが、7月30日と8月2日の合同運行日に一斉に御幸公園に集合し、華やかにパレードする。弘前と同様の扇ねぷたも、また青森と同様の人形ねぷたも運行されるそうである。

今、弘前城は100年ぶりの本丸石垣修繕工事が行なわれている(詳しい記事を見る)。私たち一行が訪れた昨年8月には、総重量約400トンの三層天守が、10月までの3か月かけて70メートル移動する直前だった。

■秀吉木像を祀り、東照宮を勧請した弘前城

江戸時代に建築され現存する天守は全国で12あり、桜の似合う弘前城天守はそのひとつである。今回の工事では、天守の背景として岩木山を見える位置に移動するという。まことに心憎い配慮である。

岩木山を望む地に移動した弘前城天守閣。

岩木山を望む地に移動した弘前城天守閣。

弘前藩の政庁である弘前城は、2代藩主・津軽信枚(のぶひら)が慶長16年(1611)に、それまでの堀越から高(鷹)岡(現在の弘前)に本拠を移転して築城したものである。初代藩主の為信(ためのぶ)は、文禄3年(1594)に大浦城から掘越城へと居城を移したが、弘前城に較べて4分の1程度の規模だった。

堀越城跡は、江戸時代以降は藩や地元住民による管理・保護があり、土塁や堀などの遺構が比較的良好に残存しており、近年では弘前市の整備によって史跡公園となっている。発掘によると、多くの鍛冶炉が並んでいたことが確認され、武器職人も城内に居住していたことが判明した。昭和27年に、弘前城とともに国史跡に指定されている。

弘前城内は、追手門から本丸を経て搦手(からめて)にあたる北門(亀甲門)まで、じつに丁寧にご案内いただいたが、本当に広大な城郭だった。なにせ本丸、二の丸、三の丸に加えて、四の丸、北の郭(くるわ)、西の郭の全6郭から構成されたからである。縄張りは、為信の軍師だった沼田面松斎祐光(ぬまためんしょうさいすけみつ)といわれる。

なお、北門は当初の弘前城の大手門であり、その北側に亀甲町と呼ばれる一筋の町人地をはさんで武家地が配置された。ここを仲町と呼んでいるが、弘前市仲町伝統的建造物群保存地区として面積約10.6ヘクタールの区域が国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

弘前城内に、石田三成の子息・杉山重成がもたらしたという豊臣秀吉像が、北の郭の南東に附属する隠し曲輪(くるわ)というべき場所に建立された館神内に安置されている。しかし弘前藩は、南部氏からの自立を認めた秀吉一辺倒ではなかった。家康の養女・満天(まて)姫を正室として受け入れたばかりか、東照宮を城内に勧請していたことも重要である。

家康の養女・満天姫の流れをくむ黒石津軽家当主の津軽承公さんと。承公さんは現在、黒石神社の宮司を務める。

家康の養女・満天姫の流れをくむ黒石津軽家当主の津軽承公さん(左)と。承公さんは現在、黒石神社の宮司を務める。

■徳川と豊臣の微妙なバランス

元和3年(1617)春に、2代藩主・津軽信牧が将軍徳川秀忠の許しを得て、弘前城本丸に東照宮を創建したのである。寛永元年(1624)には、城外鬼門の方角に当たる土淵川(つちふちがわ)沿いに新たに社殿を建立したが、これは昨年に黒石神社に合祀され摂社となった。

私たちは、黒石神社にうかがい合祀されたばかりの東照宮にお参りした。ここで、黒石藩初代信英から数えて15代目にあたる津軽承公宮司とお話しすることができた。承公さんは東照宮の遷座の経緯について語られるとともに、満天姫が隣接する相殿に祀られたことにも触れられた。

信枚は、満天姫を正妻としつつ、石田三成の息女・辰姫を寵愛したばかりか、辰姫から誕生した信義を3代藩主とした。つまり弘前藩は、女系の流れでみれば三成の血筋が藩主家となり、家康の血筋がそれを補佐する支藩黒石藩の藩主家となったのである。豊臣と徳川の微妙なバランスが、江戸時代を通じて弘前・黒石両藩に貫かれたのである。

黒石藩について、少し補っておきたい。初代信英は五千石を分知された大身旗本だった。その後、相馬大作事件で有名な6代の寧親(やすちか)が弘前藩を継ぎ、蝦夷地出兵の功を認められて弘前藩は四万七千石から十万石に高直りした。旗本黒石津軽家8代の親足(ちかたり)は、本藩の支えを得て加増され、一万石の諸侯となったのである。

 

■装束さえ身につければ参加自由な「ねぶた祭り」

実り多かった津軽半島編も最終回となってしまったが、ここでぜひとも触れておきたいのが、弘前藩領のねぶた祭り(青森ねぶた祭・黒石ねぶた、など)である。これらは、最北の町人文化の輝きが凝縮した祭礼であるからだ。

青森ねぶた祭り出発直前の筆者。

青森ねぶた祭り出発直前の筆者。

東北の短い夏を彩る青森ねぶた祭り。弘前のねぷた祭りは桟敷からの見学で終わったが、東北三大祭りのひとつに数えられる青森ねぶた祭りに、私たち一行は「はねと」、つまり踊り手として参加した。毎年、延べ300万人以上の観光客が訪れる巨大祭礼であり、1980年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。

一式5000円也のかわいらしい鈴付きの、いささか派手な装束に身を包み(専門店で購入し着付けしてもらう。レンタルもある)、「ラッセラー・ラッセラー・ラッセラッセ・ラッセラー」と叫びながら、宵闇の青森市の通りをケンケンで跳躍するのである。装束さえ身につけていれば、私たちのようなよそ者の飛び入り参加も自由である。周りに知る人のいないのをよいことに、私は自己流で踊ったのだが、充分に開放感にひたることができた。周りは若者ばかりで、まさに活気ムンムンの祭典であった。江戸時代の祭りも、さぞや開放的なものであったに違いない。

比較的気温が低いことも、このような祭りが成立する前提であろう。ちなみに青森市の8月の平均気温は23.3℃である。私たちが参加した当日も、雨上がりということもあってか、過ごしやすかった。

青森ねぶた祭りの起源は、征夷大将軍坂上田村麻呂が、陸奥国の蝦夷攻撃の戦場において敵を油断させておびき寄せるために大燈籠・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするといわれるが、真偽のほどは定かではない。

記録によると、弘前城下町で行なわれていた夏祭りを、藩主津軽信枚によって港町として整備された青森の町人が取り入れたものらしい。弘前そして支藩城下町・黒石、さらには港町青森へと弘前藩の全領規模でねぶた祭りは広がった。さらには、近代になって五所川原市の五所川原立佞武多(ごしょがわらたちねぷた)のように、高さが最大で20m強にも達する巨大な山車も出現するようになった。

江戸時代の東北というと、残念ながら悲惨な飢饉のイメージが強い。確かに、寛永・天明・天保の大飢饉は東北地方を直撃し、行き倒れ・餓死者や女子の身売りなど数え切れないほどの悲劇を生んだ。しかし、新田開発の奨励や北前船の往来などにもとづく経済発展によって、今に伝わる華やかな町人の祭礼が誕生したことの意義は決して少なくない。

江戸時代の東北地方には、厳しい自然環境のなかで町人文化がしっかりと根付いた。ふと東北の小藩の人間模様を巧みに描いた藤沢周平の文学も、その基底には豊かな地方文化の裾野があったことを思い出した。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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