歴史作家・安部龍太郎氏による好評連載「謎解き歴史紀行~半島をゆく」。今回からは志摩半島を訪ねています。「サライ.jp」では『サライ』本誌と連動した歴史解説編を、安部龍太郎さんとともに半島を歩く歴史学者・藤田達生先生(三重大学教授)が担当しています。今回は、九鬼水軍の拠点の地、志摩半島を巡りながら、戦国時代の水軍力について考察しています。織田信長の天下統一戦線を水軍力で支えた九鬼一族の力の根源とは?

↑九鬼嘉隆の首塚の前に立つ安藤龍太郎さん(左)と筆者(右)。遺言により答志島に建てられた。

↑鳥羽市(三重県)・答志島にある九鬼嘉隆の首塚の前に立つ安藤龍太郎さん(左)と筆者(右)。この首塚は、嘉隆の遺言により答志島に建てられた、と伝えられている。

↑答志島の首塚から鳥羽城方面を望む。

↑答志島の首塚から鳥羽城方面を望む。

今回の旅は、信長のもとで活躍した海賊大名九鬼嘉隆が君臨した志摩半島である。海賊というと、大型帆船に乗り組み、商船や客船などの獲物を見つけるや、どくろマークを染め抜いた海賊旗すなわちジョリー・ロジャー(Jolly Roger)を掲げて略奪を繰り返す、海のならず者というイメージが強いのではあるまいか。

昨年3月の知多半島への旅と同様に鳥羽駅に着き、「半島をゆく」スタッフと合流して隣接する港へと向かった。三重大学に奉職する私にとって、当地はこれまでも古文書や城郭の調査あるいは家族旅行で何度も訪問したことのある、なじみ深い土地柄である。

目の前に浮かぶミキモト真珠島(養殖真珠発祥の地であり、株式会社御木本真珠島が全島を所有する)をはじめとして、多くの島影が望める風光明媚な港町・鳥羽を訪れる度に、どういう訳か私は無性に懐かしさにとらわれる。おそらく、故郷瀬戸内海の風景に似ているからであろう。

中世の海賊衆は、島々が点在し潮流の変化が激しい海の難所をすみかとした。彼らは、大型帆船ではなく関船や小早などの中・小型快速艇に乗り込み、水先案内人として航行する船舶を安全に誘導する屈強の漕ぎ手だった。

したがって、冒頭でふれたカリブ海の海賊たちのように、政府の艦隊に追い回される悪党だったり、捕縛され縛り首になるような犯罪人ではなく、海上航行のためには不可欠の存在だったのだ。

↑鳥羽城跡からの答志島の眺め。

↑鳥羽城跡からの答志島の眺め。

↑九鬼嘉隆の胴塚。首塚から約15分の道のりのところにある。

↑九鬼嘉隆の胴塚。首塚から約15分の道のりのところにある。

↑九鬼嘉隆が築いた鳥羽城跡。鳥羽水族館の裏手にあたるところにある。写真は三の丸石垣。

↑九鬼嘉隆が築いた鳥羽城跡。鳥羽水族館の裏手にあたるところにある。写真は三の丸石垣。

■軍勢動員に応じる「海の武士団」

ここでは、中世海賊衆についての二つの公的な側面に着目したい。

①札浦(ふだうら)などと呼ばれる要港(海のみならず河川・湖沼も含む)に設けられた様々な関の管理者であり、関役・上乗(うわのり)料などの徴収をおこなった。

②軍船を巧みに操る海上の軍隊で、守護大名や戦国大名の軍隊の一翼に属することもあった。この側面から学術的に「水軍」と呼ばれている。

①については、中世において海賊が自らの実力で設置した関も少なくなかったが、彼らの世界では公然とその存在が認められ、関役・上乗料などの徴収は当然の権利として主張されていた。航海中に遭遇した海賊が、自らを「関」「関立(せきだち)」と称して有無をいわさず礼銭を要求することこそ、海の旅人にとって、もっとも強く焼き付けられた不条理な側面だった。

②に関連して強調したいのが、海賊衆には海の世界で傭兵のように自由でドライに活動しているようなイメージが付きまとうが、彼らの本質は足利将軍や守護大名や戦国大名の軍勢動員に応じる歴(れつき)とした海の武士団だったことである。その意味でも、決して非合法な存在ではないのだ。

戦国時代、海賊たちは海上の縄張りを拡大することに努めた。志摩から紀伊にかけての熊野灘の浦々で成長した海賊衆を統一したのが九鬼浦(三重県尾鷲市)を根城とした九鬼氏だった。伊勢国司北畠氏麾下の水軍だった九鬼嘉隆は、主家が織田信長に降伏すると、その水軍へと転身する。

天下人信長は、天正年間になると水軍の育成が喫緊の課題となった。ここで注目された海賊大名こそ、九鬼嘉隆だった。尾張に面する伊勢海は、島影一つない見通しのきく内海であり、リアス式海岸と大小の島々に彩られた志摩半島とは決定的に異なって、有力な海賊衆が育っていなかったからである。

嘉隆は志摩に蟠踞する海賊衆を率いて、天正2年(1574)の伊勢長島一向一揆攻撃を皮切りに、天正6年の摂津木津川口の戦い、天正8年の摂津花隈城攻撃などに参陣して華々しい戦果を上げて、信長配下屈指の海賊大名としての地歩を築くことになった。

■着弾すると火薬が炸裂する棒火矢

東国の戦いは、陸戦が中心だった。しかし西国の縦貫道たる瀬戸内海の制圧には、強力な水軍が必要不可欠となった。信長は、天正4年7月に木津川口で毛利氏の水軍すなわち村上水軍と対戦し一敗地にまみれることによって、それを実感する

村上水軍とは能島(のじま)村上氏・来島(くるしま)村上氏・因島(いんのしま)村上氏の一族三氏からなる瀬戸内海を代表する海賊衆で、三島(さんとう)村上氏あるいは三島村上水軍ともよばれた。もちろん能島・来島・因島は、彼らが根拠地とする中部瀬戸内海の島名に由来する。

捲土重来を期した信長は、2年後の天正6年6月と同年11月に大坂湾で雜賀衆や毛利方の水軍と再戦し圧勝する。次に、『信長公記』から関係部分を抜粋して現代語訳したい。

<海上ではほうろく(炮録)火矢などという物をこしらへ、味方の舟を立ち往生させて、次々と投げ込み焼き崩した。多勢に無勢でかなわず、七五三兵衛(真鍋貞友)・伊賀(沼間)・伝内(沼間)・野口・小畑・鎌大夫・鹿目介、このほか歴戦の武将たちが討ち死にを遂げた。西国(毛利)勢はこの戦争で勝利を収め、大坂本願寺に兵粮を入れ、西国へ軍勢を帰陣させた。>

本史料は、天正4年7月の海戦の模様を活写している。ここにおいて、村上氏を中心とする多勢の毛利水軍が織田水軍を取り囲み、炮烙(ほうろく)火矢を投げ入れ敵船を焼き沈めたことがわかる。この海戦に「大国・火矢・烙鏃箭(ろくぞくせん)・飛鎗(ひそう)・火鞠(ひまり)・火桶(ひおけ)・抛鍵(なげかぎ)・抛鉾(なげほこ)・抛炮碌(なげほうろく)・抛刺手(なげさすで)」など多種多様の海賊衆が得意とする武器を用いて、風上から敵船に数多くの炮烙を投げ込んだことを記す軍記物もある(「中国兵乱記」)。

小早などの軽快な軍船で対戦相手の船を包囲して孤立させ、攻撃には炮烙火矢を使用するのが、瀬戸内海の海戦の一般的なありかただった。炮烙火矢とは、素焼きの土器に黒色火薬と鉄片や鉛玉などを詰めた球形の焼夷弾で、戦国時代を通じて広く使用された。後には三枚羽を付けたロケット状のもので鉄炮・大砲・木筒を用いて発射し、着弾すると先端部の火薬が炸裂する棒火矢も用いられた。

討死した真鍋氏をはじめとする織田水軍は、和泉国衆であり、和泉大津などの大坂湾の要港を拠点にしていた。しかし瀬戸内海の覇者村上氏を中核とする毛利水軍の前に完敗し、大坂本願寺への兵粮搬入を許してしまったのである。

そののち信長は、嘉隆に命じて伊勢で鉄板張りの安宅船(あたけぶね)である鉄甲船(てつこうせん)を作らせ、熊野灘を経由し大坂湾に向かわせた。少々長いが興味深い内容を含むので、関係部分を抜粋しよう。

<寅六月(天正六年)廿六日に熊野浦へ船出し、大坂方面へ回漕したところ、谷の輪(淡輪)の海上でこの大船を阻止しようと、雑賀・谷輪など浦々の小舟が数知れず漕ぎ寄せ、矢を射懸け鉄炮を放ち懸けて、四方から攻撃してきた。九鬼右馬允(嘉隆)は、七艘の大船に小船を従えて山のように飾り立ていたが、敵船を間近く引き付け、適当にあしらっておいて、大鉄炮を一斉に放って、敵船を多数破壊してしまったから、その後は敵船もなかなか近づく手段が見つからず、難なく七月十七日に堺に着岸することができた。
(中略)
十一月六日、西国の船六百余艘が木津方面へ進出してきた。九鬼右馬允が迎撃すると、これを包囲したまま南に向かって、六日の午前八時頃から正午頃まで海戦があった。はじめのうちは九鬼勢は防ぎがたいように見えたが、六艘の大船には大鉄炮が多く配備されていたので、敵船を間近に寄せ付けて、大将軍の船と思われる船に大鉄炮を発射して 打ち崩したので、敵船は恐れをなしてなかなか寄せて来なかった。数百艘を木津浦へ追い込んだので、見物の人々は、九鬼右馬允の手柄だと感心しない者はいなかった。>

天正6年の戦闘を描写する本史料によると、同年6月には鉄甲戦を阻止すべく大坂湾南部の紀淡海峡付近において雑賀や淡輪の水軍が取り囲んで、矢や鉄炮で攻撃したが、鉄甲船に備えた大鉄炮の攻撃に敗退したことがわかる。同年11月の海戦においても、同様に大鉄炮が相当の威力を発揮し毛利氏水軍が敗退している。いずれの戦いにおいても、九鬼嘉隆が大将として奮戦したことがわかる。

わずか2年間に、海戦においては炮烙火矢などの小型火器から大鉄炮という大型火器を使用するものへと変化がみられた。鉄甲船は、炮烙火矢や鉄炮の攻撃をかわすためだけに鉄板張だったのではない。『日本耶蘇会通信』には3門の大砲が備え付けられていたと記されているように、軍船を破壊しうる艦載砲が備え付けられていたのである。

■信長没後は秀吉からも重用

この段階になると、鍛え抜いた海賊衆個人の戦闘能力よりも、複数の艦載砲や大量の火縄銃を装備した大型軍船安宅船を駆使する軍事力と、それを支える資本力が不可欠になってくる。従来の関船や小早を巧みに操って敵船に近づき、炮烙火矢などを飛ばして焼き沈める、あるいは敵船に乗り移って切り結ぶことを得意とした海賊大名の時代は、終焉を迎えたのである。

九鬼水軍の場合は、安宅船の造船技術をもっていたため、信長没後は豊臣秀吉からも重用され、朝鮮出兵の際は水軍の将として活躍した。しかし、藤堂高虎や加藤嘉明ら秀吉直属の水軍との共同作戦が求められたから、地位の低下は如何ともしがたかった。

村上水軍の場合は、早くから信長に属した来島氏が唯一豊臣大名として独立したものの、惣領家である能島氏は毛利氏家臣団として従属し自立性を否定されてしまった。そのため、能島氏の家臣団のなかには、よりよい活躍の場を求めて主家を辞して豊臣大名に仕官する者も少なくなかった。

天下統一戦から朝鮮出兵へと続く大規模戦争の時代、日本を代表する九鬼・村上両水軍には厳しい試練が待っていたのである。ちなみに、江戸時代において九鬼氏は摂津三田(さんだ)藩主家(3万6千石)に、来島氏は豊後森藩主家(1万4千石)となった。いずれも、海からは遠く離れた山間の小藩として生きながらえることになったのである。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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