日本橋が最初に架けられたのは慶長8年(1603)。以来、19回架け替えられ、現在の日本橋は20代目、明治44年(1911)に改架された。
19代目までは木橋だったが、20代目は石造りで、一般的には石橋といわれる。だが、石だけでできているわけではない。石が使われているのは外観だけで、内部にはコンクリートと煉瓦が充填されているのだ。
このような構造の橋が国内で確認されているのは創成橋(札幌)のみ、世界的にも非常に特殊な工法だといわれる。なぜ、このような構造にしたのか知りたいところだが、その理由を記した資料が残っていないため、真相は不明である。
日本橋は獅子や麒麟の像、親柱に施されている松と榎の浮き彫りなど、装飾も素晴らしいが、これらの装飾には意図が込められている。
たとえば獅子は守護を表し、両端に配された獅子像は東京都の紋章を前足にかけ、東京を守っていることを表現している。制作にあたっては、奈良県の手向山八幡宮の狛犬や、ルネサンス期のイタリア人彫刻家・ドナテッロのライオン像などが参考にされた。
麒麟は吉兆を示す伝説上の霊獣で、東京の繁栄を象徴している。麒麟像の制作では、角の数に諸説があるため、何本にするか論争が巻き起こったという。
松と榎の浮き彫りは、日本橋が江戸時代、五街道の基点だったことに由来する。各街道には1里(約4㎞)ごとに塚(一里塚)を築き松や榎を植えられ、マイルストーン(距離の標識)とされていたからだ。
これらの彫刻は青銅製で、太平洋戦争中に金属が不足した折、供出の危機に見舞われたが、終戦によって難を逃れたといわれる。
日本橋には戦争の傷跡も残る。歩道を歩くと、凹みや茶色の焦げ跡が確認できる。これは昭和20年(1945)の東京大空襲で落とされた焼夷弾によってできたものだ。平成22年(2010)には、大規模な補修工事と洗浄が実施されたが、戦争の傷跡は歴史の証としてそのまま残された。
また平成3年には橋詰にひと休みできる広場が整備され、滝の広場(南詰東側)、花の広場(南詰西側)、乙姫の広場(北詰東側)、元標の広場(北詰西側)の愛称がついている。
文/諸井里見