※この記事はサライ2006年8月号の特集「『万葉集』を旅する」より転載しました。写真やデータは掲載当時のものです。(取材・文/出井邦子 撮影/牧野貞之)
「万葉集を楽しむなら文献を離れ、万葉の風と光の現場に立ちましょう。そして万葉人が見たように山や川を、空や雲を眺めましょう」という中西進さんの案内で、飛鳥~吉野~阿騎野を巡った。
まず訪れたのは、持統天皇の藤原宮跡である。東に天香久山、北に耳成山、西に畝傍山が見渡せる。大和三山である。三山の中でも、とりわけ大和の象徴とされたのが天香久山。なぜ「天の」と修飾されるのだろう。
「それは万葉時代、天香久山が天から降ってきた神聖な山と考えられていたからです」と、中西さんはいう。
「香久山といえば持統天皇の歌が有名です。
春過ぎて 夏来(きた)るらし
白栲(しろたへ)の 衣乾(ほ)したり 天(あま)の香具山
持統天皇(巻一・二八)
夏の到来を詠んだ歌ですが、そもそも聖山に洗濯物を干すでしょうか。実は冬の歌で、山の雪を衣に見立て、春を一気に過ぎて夏が来たらしいと詠んだのではないでしょうか」
自由な解釈が、万葉の世界を一層楽しくする。
枕詞から生まれた地名表記
「飛鳥」と書いて「アスカ」と読むのは何故か。『万葉集』には〈飛ぶ鳥の明日香〉という言葉が登場する。「飛鳥」は元々「明日香」の地の枕詞だった。鳥が飛んでいる豊かで平和な場所という意味だ。
枕詞は歌のためではなく、土地を飾るための言葉として発祥した。それが歌に採用され、やがて地名表記として定着する。
「『万葉集』の枕詞は、風景の実体と結びついている。だから私は枕詞ではなく、連合表現と考えます」(中西さん)
『古今和歌集』以降、枕詞は形式化して添え物になるのだという。
山と川に縁取られた地で、国造りが始まった
藤原宮跡から甘樫丘に向かう。飛鳥を訪れたなら、この甘樫丘に登ってほしい。7世紀前半に権勢を誇った蘇我の蝦夷・入鹿父子の邸があった丘である。
『古事記』で倭建命は〈倭は 国の真秀ろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭し麗し〉(『新編日本古典文学全集 古事記(』小学館)より)と歌った。その青垣、つまり大和盆地を囲む山々の連なりが、甘樫丘の頂から実感できる。
丘の麓を飛鳥川が流れ、その向こうに鎮座する小高い森は雷丘。大和三山を始め、遥か彼方には二上山、三輪山も見渡せる。
国造りに欠かせない山と川
「水路が想像以上に重要だった古代に、飛鳥川は国造りの原点だったことでしょう。それは生活の川だけでなく、神南備川として尊ばれる聖なる川でもあったのです。つまり、飛鳥人の信仰の中心は神南備山にあり、それを取り巻く神南備川が飛鳥川なのです」と、中西さんは語る。
古代国家にとって、天上から神々が降りてくる神南備山と、聖なる水は欠かせない要素だった。神南備川が飛鳥川であることに異論はないが、飛鳥の神南備山は甘樫丘か、はたまた雷丘か――。
「『万葉集』での飛鳥は、飛鳥京時代よりむしろ、藤原京や平城京に遷ってから多く詠まれています。万葉人にとって、飛鳥は終生変わらぬ心の拠り所だったのです」
日の昇る山を恋い、日の沈む山に涙する
大和三山と並んで万葉の歌に多く詠まれた山が、三輪山と二上山(現在の一般的な読みは“にじょうさん”)である。
奈良盆地を囲む青垣の東の山が三輪山、それに対峙する西の青垣が二上山だ。太陽と月が昇る東の三輪山に対して、太陽と月が沈む西の二上山。万葉人にとって、このふたつの山は特別な存在、心の拠り所でもあった。
「日本には古代から、日の出を拝む太陽崇拝があり、また夕日を拝む落日信仰があります。太陽が昇るのは神の山、西に沈む夕日には仏教の影響か、浄土を拝む気持ちもあったでしょう」と、中西さんは解説する。
三輪山は秀麗に屹立する円錐形の山である。三輪王朝と呼ばれる崇神天皇の政権は、この神の信仰を背景に出来上がった。麓に大神神社があるが、山そのものがご神体なので、本殿はない。
三輪山を しかも隠すか
雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠さふべしや
額田王(巻一・十八)
上の額田王の歌は667年、天智天皇の近江遷都に伴い、近江へ下る際に詠まれたものである。三輪山との別れは、飛鳥から遠く離れることを意味していた。
姉弟の愛を今に伝える山
二上山は雄岳と雌岳が寄り添う美しい山で、彼岸の中日にはこのふたつの峰の間に日が沈むという。
次の大来皇女(大伯皇女とも表記する)の歌は持統朝の時代、謀反の罪で刑死した弟の大津皇子(天武天皇の子)を偲んで詠んだもの。時に大津皇子24歳。疑いをかけられた弟を、姉はどうすることもできなかった。祟りを恐れてか、皇子は神聖なる二上山に葬られたという。
うつそみの 人にあるわれや
明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟世(いろせ)とわが見む
大来皇女 (巻第二・一六五)
二上山の雄岳山頂近くには、今も大津皇子の墓が残る。大来皇女の歌からは、深い悲しみとともに、それでも自分はこの世に生きなければならない、という強い決意が伝わってくる。
※この記事はサライ2006年8月号の特集「『万葉集』を旅する」より転載しました。写真や情報は掲載当時のものです。(取材・文/出井邦子 撮影/牧野貞之)