日本最古の歌集『万葉集』。今なお広く読み継がれる歌集としては世界最古といってもよい。そこには喜び哀しみの感情が、自然への畏怖が赤裸々に記され、私たちの心を揺さぶる。
『万葉集』は和歌の原点というだけでなく、日本人の心の源流でもある。万葉学の泰斗、中西進さんがその概略をひもとく。
※この記事は『サライ』2006年4月20日発行号より転載しました。
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも(巻一・一)
●読み:こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このをかに なつますこ いえきかな なのらさね そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそませ われこそは のらめ いえをもなをも
『万葉集』は5世紀後半の雄略天皇を作者とするこの歌で始まる。大和国の丘の辺で、籠と篦(へら)を持って菜を摘む乙女に名を問う天皇。古代、女性に実名を聞くことは求婚を意味した。
天皇の婚姻という、巻頭にふさわしい歌で始まる『万葉集』は、全20巻に4500余首を収め、その歌数の多さでも注目される。たとえば初の勅撰集『古今和歌集』も20巻構成だが、約1100首と数では遠く及ばない。
この歌集はいつ、誰が編んだのか。平易な語り口で知られる万葉学者の中西進さんはいう。「明確な編者はいません。8世紀初め頃から長い歳月をかけ、既にあった幾つかの歌集を核に編纂が重ねられ、最後に大伴家持が中心となって形を整えたのでしょう。だから私は“成立”ではなく“形成”と呼びます」
『万葉集』という書名の意味も明らかではないが、多くの(万)、歌(葉)を集めたという意味ではないか、と中西さんは推測する。
漢字の音を借りて歌を記録
『万葉集』には庶民の歌も多く登場する。それらは本来、歌垣(人が垣根のように並んで歌を掛け合う)で歌われた即興歌や、東国の民謡、労働歌などだ。もとより、民衆に文字を書く能力はない。これらの歌はほとんど、役人らが筆録したものである。また額田王ら初期の歌も、筆録者が別にいた。
その筆録方法が独特だ。『万葉集』の歌は、原文ではすべて漢字で記されているが、漢文ではない。文字を持たなかった古代日本人は、歌の表記に中国から移入した漢字を用いた。日本語の一音に、漢字の音を借りて当てたのである。これがいわゆる万葉仮名だ。
例えば中西さんの愛唱歌でもある次の歌。
吾が恋は まさかもかなし 草枕 多胡の入野の 奥もかなしも(巻十四・三四〇三)
●読み:あがこいは まさかもかなし くさまくら たごのいりのの おくもかなしも
●訳:私の恋は今もかなしい。草を枕の多胡の入野の行く末もかなしい
この歌の〈まさかもかなし〉は、原文では〈麻左香毛可奈思〉となっている。音を表すこの万葉仮名と、「春霞」「山道」といった漢字本来の用法を織り交ぜて『万葉集』は書かれた。万葉仮名は後世、平仮名に発展してゆく。
万葉集は後々の歌集に比べて歌体(歌の形式)も、長歌、短歌、旋頭歌(せどうか)、仏足石歌(ぶっそくせきか)と多彩だ。
「万葉の時代は4期に分けるとわかりやすい。初期万葉、白鳳万葉、平城万葉、天平万葉がそれです」と中西さんはいう。初期万葉の代表歌人は額田王で、いわば歌の萌芽期。白鳳万葉は柿本人麻呂に代表され、歌の完成期にあたる。平城万葉は個性の時代で、教養派の大伴旅人、人世派の山上憶良、自然派の山部赤人などが登場。それらを統合し、『古今和歌集』につながる新しい美を創造したのが、大伴家持らの天平万葉だ。
その家持が、因幡国(鳥取県)の国庁で詠んだ新年の歌で、『万葉集』全20巻は幕を閉じる。
新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事(巻二十・四五一六)
●読み:あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと
●訳:新しい年の始めの今日を降りしきる雪のように、いっそう重なれ、吉き事よ
※この記事は『サライ』2006年4月20日発行号より転載しました。