『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けしています。

両子寺奥の院

文/藤田達生(三重大学教授)

国東半島の旅といえば、六郷満山(ろくごうまんざん)の名所ツアーである。

古代律令国家は、西の国境の目の前にある異界の入り口として国東半島の付け根に八幡神を鎮座させた。ここから見上げた半島の山塊は、耶馬(やば)といわれる奇岩が連なっており、人々からは鬼(隼人のこと)が侵入する「大魔所」と恐れられた。

宇佐の地に武神八幡神が出現し、国東半島で難行を繰り返して各所に寺院を開いたと伝えられている。宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の僧侶らは、八幡神を慕い、国東半島の険しい山々で修行に励んだ。これが、後の六郷満山とよばれる寺院集団へとつながってゆく。

六郷満山は、豊後国東郡の六郷(来(く)縄(なわ)・田(た)染(しぶ)・安(あ)岐(き)・武蔵・国東・伊(い)美(み)の各鄕よりなる)の山岳地域に建立された天台宗寺院の総称である。平安時代の長承元年(1132)には、580人もの僧侶が生活していたことが確認される(六郷山年代記)。

大分県は磨崖仏が多いことで有名であるが、その代表といえるのが不動明王と大日如来からなる熊野磨崖仏である。

六郷満山の信仰を象徴する熊野磨崖仏(豊後高田市)

まずは、約8メートルもある不動明王である。これまでも写真は見ていたが、予想以上に大きく迫力があった。通常の大日如来に見られない螺髪(らほつ)であるが、私にはどこかユーモラスな、人を引き付けるお顔だと感じられた。

別府大学の飯沼賢司教授からは、お顔をはじめとする上部をはっきりと彫り、下部は少しぼかしたように処理していること、下から眺める人の視線を意識し目線が合うように仕上げたのではないかとの解説があった。

不動明王の右隣に鎮座するのが約7メートルの大日如来である。頭上に、両界種子曼陀羅が刻まれており、この曼陀羅と不動明王で、熊野山・金峯寺・大峰山を表し、熊野三山信仰との関わりがあるとのご指摘をいただいた。院政期に盛んになった熊野信仰が、ここ国東半島にも影を落としていたのだ。

二体は、日本最古・最大級の磨崖仏で、国の指定史跡であり重要文化財にも指定されている。それにしても、仕事を任された仏師たちは山中に大型の足場を組んで、長時間にわたって仕事に励んだはずである。私にはそのスポンサーが誰なのか気になって仕方なかった。腕のよい仏師を招き、おそらく何年もの時間をかけて彫らせたのであろう。地元六郷満山の寺院関係者ではないだろう。

■中世の田園風景を今に伝える田染荘

続いて訪問したのが、田染荘内にある真木大堂である。宇佐神宮領荘園のひとつ田染荘であるが、現在も棚田景観が良好に残り、「田染荘小崎の農村景観」の名称で国の重要文化的景観として2010年に選定されている。私たちは、水を上の田圃から下の田圃へと落とすところを見学した。畦の一部を切って下の田圃に水入れをするので、水路はいらないのである。

中世の農村の風景そのままの田染荘(豊後高田市)

14世紀前半~15世紀における耕地・村落の基本形態が現在の土地利形態にほぼ継承されているといわれる荘園遺跡である。ここは、地元豊後高田市を挙げて先進的な試みをされている。その推進主体が、「荘園の里推進委員会」である。この団体は、1990年に発足し、田染荘の景観保全や都市住民との交流、農業体験の受け入れなどに取り組み、2010年にはめでたく「地域づくり総務大臣表彰」団体分門に選ばれた。

筆者は、約25年も前に大阪府泉佐野市にかつてあった九条家領日根荘の国史跡化のお手伝いをしたことがある。寺社やため池・水路など14か所が1998年に「日根荘遺跡」として国史跡に指定され、2012年には重要文化的景観に選定されている。

故小山靖憲先生(和歌山大学名誉教授)をリーダーとするメンバーに属し、田圃一枚一枚そしてため池や水路に及ぶ荘園調査をおこない、報告書や『泉佐野市史』の作成に協力した。それと併行して博物館「歴史館いずみさの」がオープンして、市民の認識も飛躍的に向上したと感じた。

しかし、荘園遺跡は城郭などとは違ってきわめて地味であり、地元の学校教員を中心とする「泉佐野の歴史と今を知る会」(1988年創立、詳細はHPをご覧ください)はさかんに活動したが、当時は町おこしというところまでは、なかなか進まなかったように覚えている。

田染荘では、「紀伊半島熊野編」の取材で訪れた三重県熊野市の丸山千枚田で説明を受けたオーナー制度と同様の「荘園領主」制度がある。駐車場には看板があり、荘園領主の皆様の名札が掛かっていた。名誉会員の次に飯沼教授のお名前もあったが、市長など近辺の方々に交じって友人・知人の名前もありうれしかった。遺跡保存と共栄する新しい動きが、静かにこの地に根づいていることを実感した。

私たちが向かったのは、田染荘内に鎮座する真木大堂である。収蔵庫の中心には、本尊である大型の木造阿弥陀如来坐像が配置され、周囲には4体の守護神である四天王像が立っていた。ここには、合計で9体の国指定重要文化財の仏像が安置されているのだが、明らかに中央の仏師の作であると感じた。技術的にすばらしい出来なのである。

重要文化財9体が一堂に会する真木大堂(豊後高田市)

ちなみに、阿弥陀如来の像高は216cm、すなわち丈六坐像で檜材の寄木造りである。熊野の磨崖仏と言い真木大堂と言い、明らかに地元の技術とは違うものを感じたのであるが、飯沼教授によると両者は同一の尾根の奥と先端に位置するそうである。熊野磨崖仏にも熊野社があり、真木大堂にもそれがある。

ここで、先回ふれた弥勒寺の元命を思い出してほしい。彼とその子孫は、藤原道長・頼道父子をはじめとする摂関家の力を背景に、弥勒寺と石清水八幡宮を結合させ、八幡信仰を国家的宗教へと引き上げていった。11世紀末に白河院が登場すると、弥勒寺には新宝塔院が建立される。

新宝塔院供養は、石清水八幡宮の別当で弥勒寺講師を兼帯する玄命の子息戒信が宇佐神宮に下向し、弥勒寺僧侶と宇佐大宮司が一緒に執り行なった。飯沼教授は、白河天皇の後押しで天台宗の拠点がこの地にできあがったと説かれる。

確かに、次にうかがった富貴寺(ふきじ)もすばらしかった。国宝である本堂「大(おお)堂(どう)」は、宇佐風土記の丘歴史博物館にお邪魔した時、立派なレプリカを拝見していた。レプリカは建立当時の彩色豊かな姿に再現しており、それと比較すると実際の大堂ははるかに重厚な雰囲気をたたえていた。

富貴寺本堂。九州では珍しい平安建築は国宝に指定(豊後高田市)

屋根は宝形造りで瓦葺き、比翼のようにみえる優雅な軒先の稜線が美しい。阿弥陀三尊が祀られている内部は暗く、彩色が剥がれている部分もあったが、まさしく平安時代の建造物の風格に満ちていた。

また富貴寺の境内には、国東塔や卒塔婆などの立派な特徴的な石造遺物も多かった。国東塔とは宝塔の塔身に蓮華座が備えられたものをいい、すらりと縦に長い姿が特徴的である。国東半島独自の発展を遂げた石塔で、現在約500基が確認されている。大きさも、90センチから4メートル近いものまで様々である。単なる墓標ではなく、生前供養・追善供養・一族や寺門の繁栄のためにつくられたものも多いそうだ。

熊野磨崖仏と真木大堂、さらに富貴寺も加えると、院政期の天台宗や京都文化の影響をもろに受けて建立された宗教施設とみてよいだろう。山岳仏教集団としての六郷満山は、この後に本格的に花開くのである。

■千燈寺奥の院 膨大な数の五輪搭群

私たちの旅は、佳境へと向かった。両子寺(ふたごじ)である。冒頭で六郷満山を説明したが、国東半島のほぼ中央に聳える両子山(海抜721m)から放射状に谷々が海岸へと広がる。そのなかに六郷が存在する。したがって、両子寺は六郷満山の中心寺院と言ってよい。

両子寺の仁王門。写真撮影スポットでもある(国東市)

ここは、杵築藩時代には六郷満山の総持院として全山を統括していたという。巨岩に挟まるように鎮座する権現造りが素敵な奥の院までうかがったが、中世と言うよりは近世の色合いが強く、子授けの霊験によって広く信仰を集めていることが感じられた。

六郷満山を開いた伝説の人物が仁聞(にんもん)である。奈良時代、彼は国東半島の各地に寺院を開いた後に、最初に開基した千燈寺(せんどうじ)の奥の院「枕の岩屋」で入寂したという伝説の僧侶である。熊野磨崖仏をはじめとする 6万9千体の仏像を造ったともいわれる。私たちは千燈寺の墓所にうかがい、その周辺の999体といわれる膨大な五輪塔群にも対面した。私は、「これだけの僧侶が山中での修行に人生を賭けたのだ」と、強い衝撃を受けた。

幻想的な雰囲気が漂う千燈寺奥之院(国東市)

その後に訪れた、五辻窟から見た周防灘から伊予灘にかけて広がるパノラマ景観が忘れられない。あたかも、大空から中国・四国・九州の一部を俯瞰するような気分に浸れる。私たちは、駐車場から山城を思わす岩屋を見上げて行路を心配した。しかし、なんなとかなるものである。鎖がかかっていた痩せ尾根の馬ノ背は少々怖かったが、山頂の五辻不動尊に着くなり天空からの絶景を堪能し、登ってきた甲斐があったとしみじみと感じた。

パノラマの絶景が堪能できる五辻窟(国東市)

まさに、雲上の世界である。名も知らぬ何千・何万人もの修行僧が、千年以上にわたり山中で修行に勤しみ人生を過ごしたのである。山岳仏教が本日のテーマだったが、天台宗や八幡信仰という国家宗教、熊野信仰や末法思想にもとづく浄土教など、幾重にも層を織りなす宗教世界を感じることができた。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」が単行本になりました。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442

『半島をゆく 信長と戦国興亡編』 1500円+税

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